【見出し】生き活き健康センター落成
本村がかねてより建設中でありました福祉の館"読谷村生き活き健康センター"がこの程竣工。その施設の完成を祝って「読谷村生き活き健康センター落成式及び祝賀会」が九月九日午後、同センターにて盛大に挙行され、多くの関係者が出席してその落成を祝いました。 (関連2ページ) ※写真 福祉の館「生き活き健康センター」の落成を祝って多勢の関係者が集いテープカットが行なわれました。
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本村がかねてより建設中でありました福祉の館"読谷村生き活き健康センター"がこの程竣工。その施設の完成を祝って「読谷村生き活き健康センター落成式及び祝賀会」が九月九日午後、同センターにて盛大に挙行され、多くの関係者が出席してその落成を祝いました。 (関連2ページ) ※写真 福祉の館「生き活き健康センター」の落成を祝って多勢の関係者が集いテープカットが行なわれました。
本村における要援護老人や障害者に対するデイサービス事業、リハビリテーション事業は村民ニーズや民生・児童委員、社会福祉協議会、ボランティアなどの関係者の協力と熱意のもとで各種の福祉施策が行なわれてきました。しかし、それらの事業は専用施設でない社会福祉センターや農村婦人の家などを間借りして行なってきたため、十分なる活動が行なえない状況にあり、事業を円滑に推進しえる専用施設「生き活き健康センター」の建設は、大きな行政課題でありました。 このようなことから、本村では高齢者や障害者の機能回復・訓練、生きがい対策、入浴・食事サービス、レクリエーション活動などを行うデイサービス事業やリハビリテーション事業、そして健常者とのふれあい機能を備えた拠点施設の建設計画を平成三年から進め、昨年十二月に建設工事は開始されました。 それは、二十一世紀に向かっての地域社会の動向などを見据えた観点からの高齢者や障害者にやさしい村づくりの一環としての拠点施設の建設であり、このほど完成した福祉の館・読谷村生き活き健康センターは今後、村民の期待に応える専門施設として、その機能を十分に発揮することでしょう。 【落成を祝い祝賀会】生き活き健康センターの施設名称は、私達の人生の「生きる活力」を教訓として命名。そして、村民待望の健康センターの完成に伴い、村では落成祝賀会を催し、訪れた関係者ら約二百人と共に喜びを分かち合いました。 テープカットの開所セレモニー続き、館内の設備状況を巡視した後に落成祝賀会は行われ、式典で山内村長は「福祉はいつの時代にも私達の身近な公民館を用いて福祉公民館を造るのが望ましい。高齢化社会に向けて関係機関で万全な対策を立て、次は特別養護老人ホームを造ろう」と呼び掛け、福祉の里づくりに懸ける村長の情熱は、既に未来に目を向けていた。 また、来賓祝辞を述べた儀保輝和村議会議長は「福祉に対する本村の施策は他に誇れるものがあり、地域の方々がふれあいをする活動も他村に優って誇れるものがある。このような施設は介護者などの支援にもなり、素晴らしいことだ」と祝福した。 祝賀会は、読老連古典音楽サークルの幕開け演奏や波平、座喜味、渡慶次、大木の各老人クラブによる琉舞が披露され、健康センターの落成に華を添えていた。 完成した健康センターは、市町村独自でデイサービス用の専用施設として設置されたのは県内では本村が初めて。 同センターの建設費用には、楚辺区出身の城間文さん(九十六歳)が個人で寄付した三千万円の善意が含まれており、村では城間さんへの感謝の言葉を石に刻み、センター入り口に据えました。 施設は、鉄筋コンクリート二階建てで、延べ床面積は千二百七十三平方㍍(敷地面積約二千九百平方㍍)。総工費は二億五千百万円。 設備は、一階に機能回復訓練室をはじめ特殊浴室に調理実習室、和室に食堂、健康相談室などを備え、二階には中ホールやふれあい広場(テラス)などが設けられ、いよいよ本村での本格的なデイサービス事業がスタート。施設に勤務する介護員や介助員、看護婦などのスタッフが福祉の向上に努め、全力を尽くしてまいります。
一九九一年に、むらおこしの担い手となる人材育成を図ることを目的に開塾した読谷村商工会(大城勝哲会長)の「ユンタンザむらおこし塾」の第三期塾が八月二十七日に始まり、第三期塾には十七人の塾生が集い"むらおこし"のノウハウを学んだ。 初日の開塾式では、大城会長が、これまで取り組んだ商工会のむらおこし十年、商工会二十年の事業のあらましやユンタンザ塾の経緯などを説明しながら、塾生に対し「むらづくり・人づくりの一環として塾を開墾した。お互いが多方面から読谷村の地域づくりについて論議し、意識を啓発して地域に活力を与えられるよう、皆さんで全村民的な『紅いもの里づくり』へ積極的な関わりを持ち、力強い地域づくりに貢献して頂きたい」と説いた。 この日の講演には、役場から新城正雄企画課長が「読谷村の未来を語る」を、沖縄国際大学の大城保教授が「魅力ある地域づくり・序論」を演題として講演が行なわれ、読谷村の基本構想に基づき、行政の立場を中心に講演した新城課長は「読谷村の未来を語るには現状を認識する必要がある。行政は村民への福祉が原点で、そこに住んでいる人達が喜ぶようなことを行なうのが行政。その中で、地域づくりや人材の育成(人づくり)は重要な位置を占める」と強調した上で、読谷村のあゆみや労働力人口、村民所得などの現状に触れた後、「読谷村行政の二十年間のむらづくりは、返還軍用地の跡地利用の位置づけであった。足元を見つめた文化的な花織の復興やヤチムン、座喜味城の復元などの跡地利用に力を注ぎ、地元の素材に付加価置をつけるような取り組みを展開していった。これから展開する将来像は『望ましい環境づくり』に向けた日常生活の交通問題などを認識する必要がある」と指摘し「人が歩いても心が安らぎを覚えるような道路の建設や、緑をメーンとした街づくり、潤いのある街づくりに繋げるようなむらづくりを目指したい」と結んだ。 また、変化の時代と地域活性化を結びつけて講演した大城教授は「地域にとって魅力ある社会とは、自分が住んで皆に誇れる社会でなければならない。ほんとに住みたい社会か、自分にとって住み良い(住みやすい)社会か」と提起した後、「激動する変化の時代に、地域社会をつくり上げていくには、それぞれ(各団体組織)がもてる能力を同じ方向に向け、エネルギーを集めることが必要」と強調。そして、「いろんな変化の中に多くのチャンスがあり、役立つことがある。変化をどう地域社会に組み込んでいくのか、仕掛けをつくりだすことが重要。変化(情報)を受信し、どう自分のものに消化し直して発進していくのか、変化に対する中・長期的な戦略が必要。変化をいち早くキャッチし、マクロで考えてミクロで行動し、全国の中で読谷にしかないものを探すことが、魅力ある地域づくりに繋がる」と説いた。 九月三十日までの日程(六回)で開塾した第三期ユンタンザ塾には、村内外からの講師を招聘しての講演や研修会などが行なわれ、その間、塾生らはむらづくりに関するノウハウを、熱心に学んでいた。
平成5年11月1日現在で土地基本調査世帯調査が行われます ●この調査は、わが国に居住している世帯の土地の所有状況やその利用状況などについて調査 するものです。 ●この調査によってつくられる統計は、わが国の宅地開発計画、土地利用計画や大都市圏関 する整備計画の企画・立案など、土地に関する様々な計画や施策の基礎資料として利用されます。 10月下旬に調査員がお宅に伺います〔総務庁統計局 都道府県・市町村〕
一九九三年「全国中学校選抜体育大会」で、柔道個人戦(55㌔級)にエントリーした新垣琢也君(読谷中三年)が、見事に柔道日本一に輝きました。 全国大会は、兵庫県にて八月十八日~二十日の日程で開催されましたが、柔道団体戦に出場した読谷中学校は予選リーグで惜しくも敗退。だが、55㌔級に出場した新垣琢也君は、各県の代表四十八人が出場した個人戦でも、団体戦で見せた負けなしの実力を発揮して決勝に進出。決勝では、奈良県・天理中学の選手に優勢勝ちして初優勝を飾り、悲願の全国制覇を達成。県内の中学生では初めて、新垣君が柔道日本一の快挙を成し遂げた。 八月二十四日午前、中学生柔道の日本一に輝いた新垣君は、優勝報告のためにコーチであり父親である新垣盛雄さんと連れ立って役場を訪れた。役場ロビーで催された報告会では、安田慶造助役が「これまで沖縄の中学生が成しえなかった全国制覇を達成した。これは厳しい練習を乗り越えた精神の賜であり、今後も大きくはばたくことを祈ります」と激励。そして日本一を果たした新垣君は「自分は優勝できるとは思わなかった。県大会で優勝した時、みなさんが激励・応援してくれたお陰で全国大会でも優勝することができた。高校に進学してからも柔道を続け、将来はオリンピック選手になれるよう頑張ります」と力強い決意が述べられると、役場職員から大きな拍手が沸き起こった。また、父親の盛雄さんは、試合経過に触れながら「第一次予選リーグで二勝を挙げ、決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメントは各選手とも実力は互角で紙一重。優勝できたのは、柔道で最も重んじる試合後の服装や節度、試合態度がどの選手よりも優っていたことが優勢勝ちにつながったと思う」と評価し、「予選を突破して後は、試合前のウォーミングアップや自らに気合いを入れて自分を高める準備を怠らず、一戦一戦で成長・たくましくなっていくのが伝わり『これは、いけるぞ一』と思っていた」と我が子の快挙に目を細め、更に「読谷中学校の柔道の名をもっと高めていきたい」と今後の抱負を述べていた。 新垣盛雄さんは、ご存じの通り読谷少年柔道クラブの監督。これまでに、同クラブを名門チームに育て上げ、県内では無敵を誇り、もっか少年柔道大会では八連覇を達成中。また、同クラブ所属の喜屋武元気君が昨年、小学五年の部で全国を制覇し、小学生柔道の日本一に輝いたばかりでなく、同クラブ出身では、松田哲也君(読谷中→沖尚高校)が全国高校柔道・ドイツ遠征の日本代表選手に選抜されるなど、素晴らしい選手を輩出。県内出身で、これまで柔道日本一になった選手は、真喜志慶治君(沖尚高校→天理大)をはじめ喜屋武君に続き新垣君の三人。そして、中学生では新垣君が県勢初快挙を成し遂げた。 このうち、柔道日本一を達成した選手が二人とも、本村出身であることは名誉なことであり、村民としても大きな誇りでありましょう。 新垣琢也君の日本一の快挙を、村民みんなで称えたい。
平成五年九月一日付けを以て、本村のホームヘルパーに次の方々が委嘱を受けられました。 【ホームヘルパー】 ・福地邦子(喜納三〇六) 左から四人目 ・桑江あゆみ(座喜味一四) 左から三人目 ・仲原 節(古堅六五ー六) 今後、老人家庭奉仕員として頑張ってまいります。 村民の暖かい激励と、ご協力をお願い致します。
おきなわ、こころ、つちをテーマに、「金城実・彫刻展」が八月二十七日から九月十九日の間、村立美術館にて催されました。 同展は、彫刻家・金城実氏の二十有余年にわたって心魂を注ぎ創作した作品を、氏の「フランス・パリ展」での出品作を中心に、これまで「沖縄巡回展」と称して、那覇市民ギャラリーでの展示を皮切りに、勝連町農民研修センターを巡回。そして今回、読谷展の開催となったもの。 多くの関係者が訪れたオープンセレモニーで、金城氏は「読谷村だけが行政レベルで『戦争と平和展』を受け入れてもらえ、今でも感謝している。読谷村との出会いは、村長のアメリカ大統領ジミー・力ー夕ーへの直訴や文化村づくりを本土で知り、勇気づけられた。読谷での展示は二十年来の希望であったし、作品には二十年間の紆余曲折した流れがあるのを見て頂きたい」とあいさつ。また、山内徳信村長は「土は生きていて、(金城氏は)土をとおして子供たちを教育している。作者の創った生命がここには集約されている」と述べた。 館内には、金城氏の力作六十点余が展示され、観賞した参加者らは、彫刻家・金城実の世界に圧倒され、作品の数々に感動を抱いていた。 金城 実 経歴 1939年 沖縄県勝連町の離島浜比嘉島に生まれる 1957年 琉球政府立前原高校卒業 1960年 京都外国語大学入学 1970年 沖縄での反米暴動「コザ事件」に刺激され、制作活動始める 1971年 代表作「沖縄」「1945.8.18」(集団自決モニュメン制作 1972年 沖縄、日本返還。代表作「瀕死の子を抱く女」制作 1973年 沖縄で個展。「摩文仁丘」制作 1974年 「拷問」で大阪市長賞 1977年 大レリーフ(7m×12.5m)「解放へのおがり」 「漁夫マカリー」(大阪市長賞)「鬼神」 1979年 大レリーフ「戦争と人間」全国80ヶ所で巡回展(~'80まで) 1980年 定時制高校生の像「希望への力像」 1983年 大阪で個展「吟遊詩人」展 1986年 沖縄で「残波大獅子」建立。大阪で個展「運動としての親鶯」像建立(兵庫県) 1987年 長崎原爆記念公園に「長崎平和の母子像」建立 沖縄戦集団自決の像「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」建立(後に、右翼によって破壊される) 1988年 京都・大阪で個展 1989年 京都個展 1990年 沖縄・京都で個展 丸木位里・俊さんと沖縄作品展(熊本) 1991年 京都個展 1992年 大阪・京都・滋賀で個展 フランス・パリで個展
風光明媚な景勝の地・残波岬いこいの広場に建立(一九八六年)され、今や本村のシンボルとなって、世界一を誇る残波大獅子。 その大獅子も、七年の年月とともに残波の厳しい風雨にさらされ部分的な損傷が激しく、この程改修されることになりました。 修復作業には"残波大獅子修復協力会"(会長・儀保輝和村議会議長)を発足させ、去る八月六日には初起し会を催して、大獅子の前で起工式・安全祈願祭が行なわれました。 起工式・安全祈願祭には、彫刻家の金城実氏をはじめ、協力会や村内の関係者ら多数が出席する中、役場職員の琉球古典音楽愛好家らによる「かぎゃで風」の演奏で式を挙行し、金城氏の「手斧立て祝い(ティンダティーユー工ー)」で修復工事の安全祈願がなされました。大獅子の修復工事はその翌日から着手。修復作業には村民の方々をはじめ役場職員など、また、夏休み期間中の合間をぬって多くの中・高校生らも積極的に協力して大獅子の修復に関わっていた。 修復前の残波大獅子は、高さ六・七㍍、全長七・八㍍。修復後は肩部分から頭部にかけ約二㍍伸びることになり、工事は九月いっぱいまでかかる予定で、十月には再度、その雄姿をお披露目することになります。 残波に鎮座する残波大獅子は、読谷のシンボルとして本村の限りない発展を願い、今に生きる私達にきっと勇気とロマンを与えてくれることでしょう。
あるところにふたりの兄弟がいました。兄の名まえはマチューといい、とても横着者でした。弟の名まえはカミーで、これはまた貧乏ではあるけれどもやさしくて親孝行者でした。 しばらくして、おとうさんが病気になり、カミーを枕元へ呼んで言いました。 「おまえはお金もないのに、いつも親を思ってくれてありがとう。おとうが死んでも葬式に余分なお金は使わないで、ナンカ(法事)のときでも線香の一本、お酒の一合を供えてくれ」 と、遺言しました。 二日後におとうは亡くなったので、ナンカには遺言どおり線香一本と酒一合を持って行き、供えてあげました。 すると、兄さんは持ってきた物が少ないといってとても怒りました。 弟のカミーはもう、兄さんの家へ行くのを止めて、おとうのお墓に線香とお酒を供えようと決めました。 次のナンカの日、墓に行き、お酒一合を供え、線香をあげて帰ろうとすると、墓の袖口から真白い小犬が出てきたので、とてもびっくりしてブルブルふるえました。いくら追い払っても逃げもせず、墓の前に座りこんでワンワン吠えているだけです。 落ち着いてよくよく考えると、 「ここはよその墓ではなくておとうの墓だ。この犬はおとうなのかもしれない」という気持ちになりました。 小犬はカミーの後をずっとついてきました。家に着いてからもカミーのそばを離れないので、「よしよしおまえはずっとここにいていいよ」と頭をなでるとうれしそうにしっぽをふりました。 カミーは小犬をたいそうかわいがり、お米を一合炊いても、自分は食べずに小犬に食べさせました。 すると、ふしぎなことに、その小犬に食べさせた分は黄金がおかれていました。毎日、毎日そのようにして、カミーはたちまち金持ちになりました。 そうすると、耳の早い欲張りの兄さんは、「これはこれは貧乏者のカミーが、こんなに金持ちになるとは珍しいことだ」と、わけを聞きにきました。カミーは正直者なので、小犬と出会ったことなどありのままに話しました。 「一日に一合のごはんしかあげてないが、黄金をここにおいてくれるんだよ。それでわたしは金持ちになったんだよ」と。 兄さんは、「この犬をしばらく惜してくれ」と言って、むりやりひっぱって行きました。 家へ連れてくると、大事にするどころか、黄金欲しさに、「これは一合喰わしては、その一合の分しか返ってこない。二合でも一升でも喰わせれば、それだけ返ってくるはずだ」と考えました。悪い心を持った兄さんは、いやがる犬の口にどんどんごはんをおしこんだので、とうとう死んでしまいました。 「こんなにたくさんごはんもあげたのに役立たずの犬め」と怒って、畑までひきずって行き、そこへ放り投げました。 このことを知ったカミーは、たいへん悲しんで、すぐ畑へ行き、死んだ犬を抱えて家へ連れてきました。そして、庭に穴を堀り、手厚く葬り、そばに木を植えてあげました。その木は緑の枝をひろげ白い花が咲き、たくさんの実をつけました。毎年、その木はたわわに実をつけ、カミーもますます金持ちになりました。 木の名まえは「クガニ」といい、宝木ということで、お盆やお正月には仏壇に供えるということです。
-おもろそうしの世界観- 「沖縄文化の源流と歴史」 講師:外間守善氏(法政大学教授) 主 催:読谷村教育委員会 日 時:10月16日 午前7時~9時 場 所:読谷村総合福祉センター 入 場:無 料