
重要文化財 座喜味城跡保存の意義について
重要文化財 座喜味城跡保存の意義について 一、座喜味城の歴史 座喜味城は十五世紀の初期、琉球の武将護佐丸によって築かれた城である。護佐丸は初め読谷山山田の城主出会ったが中山(首里城)の尚巴志に味方して、北山(今帰仁城)攀安知を亡ぼし其の後座喜味を築いて其処に移った。当時座喜味城下にある長浜は南方貿易の港であった為、護佐丸は長浜港の近くに居を移して、南方貿易による富の蓄積が目的でなかったかと考えられる。護佐丸は其の後(それは彼の晩年であったか)座喜味よりもづと堅固な城を中城に築いた。だから中城城は座喜味城の欠を補いもっと広くかつ要害であり当時の琉球の城としては首里城に次ぐ代表的な城である。だが座喜味城と中城城はその築城の技術に共通する者があり、また護佐丸が最初に築いた城である為琉球の築城の歴史を知る上において最も重要な資料である。 二、座喜味の特殊性 当時の首里城がどの程度構えを持っていたか明かでない首里城は十六世紀の頃から幾度も補修増築を加えた形跡がある為築城当時の規模がどの程度のもので合ったか、窺い知る事は出来なかった。然し座喜味城と中城城とはその築いた人の名も時代も良く解って居りそしてそれは、築城当時そのままであり、殊に座喜味城は護佐丸がそれ程勢力を持っていない若い頃の築城であるため、城として最も必要な無駄のない純粋な形態を持っている。又当時の日本には、座喜味城のような堅固な山城はなかった。現在日本に残っている城は殆ど座喜味城より一、二世紀後代に築かれた者であり、従って座喜味城は、日本の城の模倣ではないし、勿論支那の城とも違うとすると護佐丸はいったい何処からその技術を学んだであろうか。城壁の石の組合せ城門のアーチ二の丸から三の丸への作戦的築城技術等言うまでもなく、当時の首里城や今帰仁城をある程度模したとし考えられるが首里城のない現在現存する今帰仁城と比べて見てもその様式には幾多の相違する点が見出せる。護佐丸は勿論天才であったに違いない。然しその簡明にして要を得た築城の技術を見る時それは単に護佐丸の天才を称えただけで済ませる問題ではない何処か南方諸国の中に座喜味のモデルになった城跡があるのではあるまいか。また護佐丸は南方の何処かの国から築城技師を伴われて来たのでは内だろうか、それは吾々及び後世の琉球の学究が是非調査研究しなければならない一つの大きな課題出ある。 三、何故座喜味城跡を保護しなければならないか 前項の事実が判明する事によって、当時の琉球文化の程度戦争の規模或いは南方諸国との文化の交流等が解り琉球の文化史に貢献する幾多の歴史的事実が浮かび上るのである。現在世界の歴史家争って古城跡の研究に手を染め古城跡の保護に就いては世界の学者が殆ど国際的な関心を持っている。たとい座喜味城跡が現在雑草におうわれ破損しているにしても後世吾々の後に続く琉球の学究が必ずその中から明るい学問の曙光を見つけ出すであろう。吾々は長い間捨ててかえり見られなかった古代エジプトの遺跡やギリシャのパルテノン神殿が現在世界の文化史の重要な資料となっている歴史的事実を知っている。従って座喜味城跡を保護しそれをそのまま後世に遺す仕事は、吾々が世界の学究に対するむしろ大きな義務だと考える。 1957年7月25日 琉球政府文化財保護委員会 委員長 山里永吉