人口 あけましておめでとうございます
広報よみたん 72/1 NO154 人口 昭和46年11月30日現在 男 11,050人 女 11,819人 計 22,869人 世帯数 4,300戸 電話 2201 水道課 3976 あけましておめでとうございます 写真提供 曽根信一さん
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広報よみたん 72/1 NO154 人口 昭和46年11月30日現在 男 11,050人 女 11,819人 計 22,869人 世帯数 4,300戸 電話 2201 水道課 3976 あけましておめでとうございます 写真提供 曽根信一さん
明日にはばたく青春の夢 内外ともにゆれうごいた1971年も去り、希望の1972年の初春をむかえました。 沖縄返還協定の強行採決、ドルショック、ジェット機墜落事件などけしてよい年であったとは思えません。 しかし、私たちは、迎える1972年は、人間性回復と平和で豊かな村づくりを目ざして奮起しなければなりません。 日本復帰、海洋博の誘致などなど今年こそ躍進読谷村を築く決意をしたいものです。 そこで、新春に当り明日を担う若者に新年の抱負と決意を語っていたださました。 考える農業を 冨着平一 私は一九六八年に中部農林高校を卒業すると同時に、沖縄産業開発青年隊に入隊し、将来海外へ移住する青年、社会の中堅青年として地域社会に役立ち得る基礎訓練を受ける機会を得ました。 朝は午前五時四十五分起床諸規律の訓練を受け、昼は農業実習や機会の実習、そして晩二時間の講義というきびしい訓練の連続でしたが、今ふりかえって見ますと、実社会で働く上で非常にプラスになったと思います。 また訓練で感じた事は、今後の農業は機械の利用と、家畜をとり入れたものでなければならないと考えます。私は、青年開発隊に入るときから、自分の将来は農業以外にない、農業を自分の職業とする決意をしたのでそれに関係するところに勤めたいと希望していました。幸いに読谷村農協に就職することが出来農業について学ぶことが出来たのです。現在は、農機具センターで運転、農耕地の改善に努めております。 しかし、村内をめぐって見たとき、農業村といわれたわが村が、耕地は荒れ放題若者は去って行くという現実を見た場合実に悲しくなります。 農業だけでは生活できないと去っていく青年の態度には賛成できかねます。近代的に経営を合理化し、多角経営をとり入れるならば必ず成功すると確信します。 今年は県民の悲願であります祖国復帰が実現する年です。社会的にも、経済的にも、名実共に本土との格差をなくさなければなりません。 とりわけ第一次産業としての農業の振興は重要です。軍用地としてひよくな土地は収用されておりますが、復帰によって、これらの土地を解放させて近代的な農業をしてみたいと思います。若者には農業では食えないという考えがありますが、私はそう言う考えをうちやぶる何かを今年にかけています。 緑青々とした緑濃い農作物を見ながら、公害に脅えることのない生活ができる。そう考えるだけでも楽しいものです。 社会人として 新垣君子 私が社会人になって、はや二年の歳月が流れ、その間いろいろの事がありました。私の仕事はバスガイドです。 ガイドという仕事は、一般の人が休みの時、私たちガイドが大変忙しい時期なのです。 七月の中旬から九月にかけての夏休み、秋の観光シーズンは、修学旅行、社会見学、一般の観光客など大変忙しい時期になるのです。そんなとき、心身ともつかれはてて、何もしたくないという気持ちになってくる時もたびたびあります。しかし、大変きつい仕事でありますが、この二年間で自分が学生時代の時より、一歩一歩前進したような気がいたします。 私は、今ガイドになって本当によかったとしみじみと感じます。 ガイドという職業は、いつもお客様と接する機会が多く、たえずフレッシュな知識を学ぶ事ができます。私はかって、人前で話すこと、歌うことが苦手でしたが、この仕事についてからは、自然におしゃべりも出来ますし、ひっこみじあんだった自分が何事にも積極的になりました。 このように、いろいろと社会人として勉強できるガイドという職に私は生きがいを感じているものです。 私の生活信条は、 一、責任ある行動 二、仕事と遊びのけじめをつける 三、いつも笑顔を忘れずお客様に親切にする の三つです。 社会人として、大切な事は責任ある行動をする事です。無責任な行動によって他人に迷惑をかけてはいけないと思います。 社会人は、現実をよく認識し、理想に向かって責任ある行動をすることではないかと思います。一個の社会として、何事にも、責任が持てるかということを考えながら行動する必要があるんじゃないでしょうか。だからと言って責任だけ感じ、恐れたりすると一生涯何も出来ないから、正しい事は積極的に行動することが大事ではないでしょうか。
〔154号2ページの続き 今年こそステキな人を 仲村渠ヨシエ 私は、今年の三月に高校を卒業し社会人としての経験も浅く、まだ未熟者です。いまだにヒヨコである私は卒業すると同時に、磯野繊維株式会社に入社し本土研修生として十ヶ月間色々なことを学びました。 そして本土での研修をおえ沖縄に帰って来て一ヶ月をすぎたばかりです。 本土と沖縄を比較した場合、教育、文化、社会の各面において地域差があることは否定できません。 しかし、人間のものの見方、考え方は同じではないでしょうか。 文明社会においての人間の考え方が、都会と地方かどの位の差があるか、私などの地方から出た者はバカにされないか心配でした。 本土の人の中には、沖縄を知らずあやまった沖縄観をもっている人が居り、その人にかぎって沖縄のことについて何も知らない人でありましたので別に気にしませんでした。 私は多くの人々と接して来ましたが本当の沖縄のことを理解している人が少なかったことが残念でなりません。 それよりも私たち若者にはやらねばならない事がたくさんあると思います。 まず第一に思うことは、学生時代とちがって、わがままが許されない事です。いったん社会人となったら年令の差なんて関係なく、皆が私のライバルです。またそれにぶつかっていくだけの若い力をあふれる位にあります。 二度とない青春を悔なくすごしたいと考えます。 七二年の私 山内清高 私は、今年の長浜区の公民館の書記として勤めるかたわら、区の青年会長として喜びもかなしみも共にしてはや一年をすぎようとしています。ふりかえってみますと、公民館の仕事や、青年会活動など、すべて初めての経験であり、社会に出て間もない私にとって学ぶことが多くありました。 たとえば区においては、各層(老人会、婦人会、児童自治会・・・・・・)との対話、区長の補佐的立場、青年会の運営など、私には全部が困難なことで、その時には区民の御指導、青年会員の協力により、一応、従来通りの務めを終えることができました。 そこで「言うはやすし、行なうはかたし」という古いことわざがありますが、お互いが一致団結して素直に話し合えばすべてがうまくいくことだと思います。 本土復帰の年にあたり、これから先、かってない困難な問題が予想される折、より以上の努力が要求されることと思います 今年は、過去一年の経験も、踏み台としつつ、先輩の指導を仰ぐつもりです。皆と語り合うなかで、自分の立場を意識して、可能な限り、仲間と共に、頑張る決意であります。
新春を迎えて 村長 古堅宗光 謹んで新年のお祝詞を申し上げます。 村民のみなさん明けましておめでとうございます。 一九七二年の元旦は、祖国の施政権が及ばなかった米国統治最後の元旦でありまた、同時に祖国復帰実現の新らしい沖縄の出発を迎える元日となるでしょう。 一九七二年は、沖縄の歴史が大きく変化する年でありますので、戦後二六年間過してきた元日とは、また別の観点から新春を迎え心新たにしたいものです。 一九七一年は、沖縄にとりまして暮れの沖縄国会に象徴されますように、正に激動の年でありました。 二六年間の変則的米国統治を清算するには、二六年間の時がもたらした禍根は余りにも深く広く、沖縄返還協定で完全に清算することが如何に困難であるか、問題の複雑さを痛感します。しかし、一九七二年中には必ずや祖国復帰は完成するでありましょうから、村民のひとりひとりが、それぞれの立場から、生活が、職業が、家業が、その他身辺がどのように変化するかあるいはまた変化をきたさないものは何か、そして、それらにどういう心がまえをすべきか、どういう対策を準備すべきか、真にみずからの問題として考えていただきたいと思います。 そうした前もっての適切な対策と、心がまえをもって、県民が希望する返還期日(一九七二年四月一日)を不安なく平穏のうちに迎えたいものであります。 読谷村におきましては、一九七一年は国際海洋博覧会の残波岬誘致に始まってとうとう年も暮れてなお最終決定をみないまま新年を迎えましたが、実際に沖縄国際海洋博覧会の会場建設は一九七三年の春頃から開始されるとのことですが、巷で聞かれるように現在軍用地であることが、会場として条件が悪いということにはならないので、沖縄国際海洋博の残波岬地区誘致を今後も強く推進すると共に、日本政府通産省が構想している読谷地区工業公園計画の実現についても、琉球政府御当局と十分連繁を深め、今後さらに努力を重ねて行きたいと思います。 なお、一九七二年は復帰の年になりますので、たくさんの法律、制度等の準備移行、その他復帰対策のため、役所事務はたいへんな量と内容になると予想されます。 また、一九七二年は、読谷村の開発振興の方向(海博・工業公園構想)が左右される重要な年でありますので、村民の深い御理解と御協力を切にお願い申し上げます。 最後に、申請沖縄の門出一九七二年の新春を心からおよろこび申し上げて新年のご挨拶といたします。 新年の挨拶 議会議長 知花平良 内外ともに震撼させた激動の一九七一年も光陰矢の如く夢の間に過ぎ去り、ここに希望に輝き新春を迎えるにあたり、村民各位に謹しんで新年の御挨拶を申し上げます。 村民の皆様明けまして、おめでとうございます。顧りみまするに去る年は全く内外ともに震撼させた激動の年であったと思います。 沖縄県民の願いであった完全無条件復帰は叶えられなく、去る六月一七日に当時の愛知外務大臣、アメリカのロジャーズ国務長官によって調印された返還協定は、われわれ県民の願いには程遠いものであり、必ずしも県民にとって満足するものではないが、その協定が両国の国会において批准されたこと、又アメリカの経済政策としてニクソン大統領のドル引締め、金とドルの交換停止の政策により日本経済の不況、その影響によってドル経済圏内にある沖縄住民の損失、毒ガス撤去問題、本村においてはウトン川の弾薬処理による事故、ジェット訓練機の墜落事故等必ずしも最良の年とは言えない多事多難の年であったと思いますが、禍い転じて福となす、との諺のとうり今年こそ村民にとって最良の年になるよう最良の年になるよう最善の努力をつくさねばならないと心を新にするものであります。 われわれ県民が復帰協定に不満であろうと、なかろうと、両国の国会において批准され、来る四月か七月頃には復帰することになると思いますが、復帰後はいろいろと困難な諸問題がわれわれの目前に到来するものと思慮されます。 例をあげますと、国会において採択された復帰関連法の執行、特に、その中の公用地暫定使用法による軍用地の再契約問題、ドルと円の交換、基地依存の中においての本村の開発、海洋博や、企業誘致問題等、復帰後は勿論本村の進路は多事多難のものであるとおもいますが、この激動する諸情勢に対処して、われわれはおな奮起し、新年頭初から村長を中心に全村民が益々信頼を深く永続させていくことによって、総ての難問題を解決し、希望に満ちた輝かしい夜明けを迎えることができると信ずるものであります。 われわれ議会も復帰後の明るく住みよい村づくりのためには色々の難問題を勇断をもって解決して村民の意思決定機関としての責務を果たすことをお誓い申し上げます。 何卒今年も村民各位の倍旧の御指導と御協力をお願い申し上げます。 常磐なる松の緑も春来れば 今一しほの色まさりけり ここに希望の新春を迎えるに当たり村民各位の御清福と御繁栄を心から祈念致しまして年頭のご挨拶といたします。
1971年をかえりみる ①長期カンバツで断水が続いた(砂良ガー) ②ジェット機が墜落村民に恐怖をあたえた。 ③海洋博調査団が来た ④イソノ工場が落成操業した ⑤座喜味城公園化を計画した。 ⑥愛楽園をはじめて慰問した(デイゴ娘の余興) ⑦老齢年金証書が交付された ⑧都屋の海神祭が催された ※写真のため原本参照
※154号5・4ページの見開きのため、全文は4ページにあり。
沖縄イソノ落成 読谷村の外資導入企業第一号である株式会社沖縄イソノの工場がこのほど完成十二月十三日盛大に落成式が催されました。落成式には屋良行政主席、喜久川通産局長、本土の繊維業界の関係者多数が御出席し、また地元側は古堅村長、議会議員、区長、旧地主等、二百名余が出席した。 同工場は幼児用、ベビー用の靴下を製造、販売する会社で十二月から本格的操業が始まっています。従業は全員地元採用で、本土研修団の十六名と、一次募集の四〇名で操業され、来年の三月には二次募集を予定しています。 読谷村としては、企業誘致第一号として、読谷村の経済開発の突破口になるよう大きく期待している。また特に企業公害が問題になっている今日、同工場は公害がなく、環境が整備され風光明眉で、工場公園として大きく発展するものとして期待しています。
役所案内 総務課(行政係、財務係) 総務課長 知花稔 総務課は、議会の招集手続議案の調整、区長会、職員の給与、厚生、など人事に関する事や、文書の発送及び収受、保管、予算の編成事務から、予算の執行統制事務、村債、市町村交付税の事務、村有財産の管理物品の購売、その他財務に関することなどが大きな仕事です。
謹賀新年 躍進読谷村を築こう 読谷区教育委員会 委員長 大湾梅成 読谷村老人クラブ連合会 会長 渡久山朝盛 読谷村農業協同組合 組合長 山城幸成 読谷村婦人連合会 会長 与儀トミ 読谷村体育協会 会長 岳原宜正 読谷村青年団協議会 会長 仲吉朝賢
ふるさとの民芸 喜名焼(2) 読谷に喜名焼があるということは広く知られているが何時頃から始められ、どこから伝ってきたのかについては明らかでない。読谷は、一三世紀頃、即ち察度王の時代には、長浜、瀬名波等を支配する按司がいて、長浜港が外国貿易で外来文化を伝えるセンター的な役割を果たしたのではなかろうか。 タイ、ビルマ、支部、朝鮮などと交易するに及び、先進的な文化を流入する中で泡盛の製法を学び、それを入れる壺の焼き方も自然と体得したのではなかろうか、そして、一四二二年山田城から座喜味城に移った読谷按司護佐丸が窯業者を伴って来たことは当然で、その陶工たちが喜名に住み、窯を構えて喜名焼きという陶器が産れたことは考えられる。 そして、今から約三百五〇年前に現在の壺屋陶工が喜名、知花、宝口などから集められたのではなかろうか。古老たちの話によると、今から七〇年前までは喜名で赤ガワラが焼かれたと言われ喜名観音堂の近には窯跡がある。 壺屋が喜名から移って行ったとういうなごりを示すものに壺屋方言がある。 土地の人達自身も祖先は喜名から来たと信じていいるし戦前は喜名殿内に神旨に行った事がそれを裏書するものである。 護佐丸が支配した読谷村は、南方と貿易で栄え、文化も発展したであろう。 そう考えるとき、歴史的に読谷は有利な立地条件をそなえているかも知れないしその条件をフルに発揮して明るく住みよい豊かな村づくりは村民の願いではなかろうか。