
読谷村の概況
読谷村の概況 一、人口 読谷村における戦前の人口は次の国勢調査の結果が示すように多少の増減はあったが大体に落ち着いた線にあった。これは経済的、社会的諸種の条件から自然増加率はそれほど高くなく社会的増減も移民出稼等で多かったものと思われる。 大正十四年 一四、五六〇人 昭和五年 一五、八三五人 昭和十年 一六、四〇五人 昭和十五年 一五、八八三人 不幸にして第二次世界大戦に於いて激戦の地と化し、数千人の犠牲者を出したので一九四七年には一四、〇〇〇人に激減したものと推定される。しかし、一九四六年から一九四八年にかけて一、九〇〇人の復員並びに引揚者等による社会増とこれ等による人口構成の若返りや保健衛生面の著しい改善により自然増加率も高くなり加うるに海外等の社会移動が減少したため人口は逐年増加の一途をたどっている。 昭和十一年 一五、七四三人 同 十二年 一五、八六五 同 十三年 一五、八七〇 同 十四年 一五、三六三 同 十五年 一五、三一九 一九四六年 五、五二八年(読谷村移動済人口) 〃 四七年 一四、三四五人 〃 四八年 一六、〇四三 〃 四九年 一六、一〇五 〃 五〇年 一六、五七四 〃 五一年 一七、〇九〇 〃 五二年 一七、四五一 〃 五三年 一七、九九四 〃 五四年 一八、一九二 〃 五五年 一八、六九一 〃 五六年 一七、九〇三 二、土地 読谷村の総面積は三一、八〇〇反(九、五三九・四三四坪)であり、戦前(昭和十四年)は一九四六町の拡大な耕地を有していた。即ち総面積の約六一%は農耕地で占められ農家率も九五・四%の純農村であった。しかるに戦後(一九五五年)に於いては総面積の七二%が軍用地に接収されたため農耕地は黙認地を含めて五六四町に激減し加うるに人口は一八、六九一人に増加した。従って経営規模は極度に零細化され一戸当たりの耕地面積は戦前の六・五反に対して戦後は一・九五反でその三分の一にも足りない零細な経営規模である。即ち戦前の五反未満農家は約五%であったが、戦後は九六%に激増しており経営状態から見ても小作農家は戦前七%に過ぎなかったが前後は二一%に増加している。 三、農業生産構造 戦前は近くに嘉手納製糖工場があり村内には共同製糖場五か所(約一二〇屯)と畜力鉄車製糖場八〇か所を有して農家の経済は糖業によって支えられていた。即ち蔗作面積の耕地に対する割合も三一%を占めていた。亦良質の甘藷の産地と知られ、養畜も盛んで、農家経済は割に豊かであった。ところが太平洋戦争とその後の米軍駐留により凡ゆる農用基本施設住家その他公共建物等は全滅し、加うるに読谷飛行場、ボーロ飛行場、弾薬集積所、その他の軍施設として多くの耕地が引き続き使用され、或いは潰れている。特に弾薬集積所地域には本村の水田面積の大部分が占められており、現在の水田面積は僅かに二八七反で戦前の四分の一に減じている。主要農産物栽培面積及び収穫高の総勢は次の通りである。 水稲 戦前(一九三七年) 面積 一、八四四反 収量 二、三七五石 戦後(一九五五年) 面積 五〇五反 収量 七四六反 甘藷 戦前 面積 九、八四五反 収量 四、七二五、六〇〇石 戦後 面積 五、六一〇反 収量 二、四二四、〇〇〇石 甘蔗 戦前 面積 ■■■■ 収量 ■■■■ 戦後 面積 ■■■■ 収量 ■■■■ 大豆 戦前 面積 一四、八五〇反 収量 二、九〇九石 戦後 面積 八九〇反 収量 六六八石 四、社会構造 (イ)聚落状況(戦後部落の離合変遷) 一九四四年八月から九月にかけて学童疎開者を宮崎県に送り一九四五年一月老幼婦女子に対する疎開命令により指定村国頭に疎開を始め同年三月下旬全村民に避難命令が発せられた。 一九四五年四月米軍上陸以来三か月の激戦の間老幼婦女子の栄養失調でたおれる者や防衛隊員の犠牲者は続出した。 終戦当時、国頭、羽路、金武、久志、石川に分散していた村民は米軍の保護を受けながら食を求め、或いは故郷の近くにと金武、宜野座、石川、胡差等に次第に集団するようになった。 一九四六年八月読谷村への移動許可とともに各地区より約六〇〇人を選抜、読谷村建設隊を編成して村再建の第一歩を力強く踏み出した。しかし村内に移住は許可されたのであるが、住宅建設地域は制限され、当初波平の半分と高志保に許可されたのみであったので一応全村民をこの二部落に集団生活せざるを得なかった。 一九四七年四月楚辺、大木に移動を許され雑居していた村民は一応北部、中部、南部に分かれて住むようになった。その後再び軍の接収により再移動した部落あり、戦後十一年今尚戦前の部落に移動出来ず生活安住の地を得ることの出来ない部落もある。 部落別世帯数及人口は次の通りである。(一九五六年五月末) 区名 戸数 人口 摘要 喜名 二九五 一,六一二 波平に受入、一九四八年十月 喜名一号線 西側へ移動 親志 三三 一六三 高志保に受入 一九四八年十月 喜名 松川 原に移動 座喜味 二八五 一,三八六 波平に受入 一九四七年七月 座喜味板針原 に移動 伊良皆 一二四 五九〇 波平に受入 一九四九年九月 喜名松川原 に、一九五二年八月 伊良皆一号線西側へ 上地 二二 九六 波平区に受入 一九五〇年六月上地区に移動 波平 四〇二 二,一三二 波平に 都屋 八七 四七九 波平に受入、一九五〇年六月 都屋に移動高志保 二一四 一,一九八 高志保に 渡慶次 二二七 一,二〇一 高志保に受入 一九四七年十一月 渡慶次に 一九四八年五月 高志保に 一九五四年渡慶次 へ 儀間 一〇九 六六三 高志保に受入 一九四七年十一月儀間に 一九四八年五月 再び高志保へ 宇座 一八四 一,一一一 高志保に 瀬名波 一六三 九五四 高志保に受入 一九四八年七月瀬名波に 長浜 二二一 一,一一二 高志保に受入 一九五一年長浜に 楚辺 一,二九三 一,九四四 波平に受入 一九四七年四月楚辺に 一九五二 年三月楚辺吉川原へ 渡具知 一一五 六四五 波平に受入 一九四七年四月楚辺に 一九五二 年三月 渡具知に 一九五四年二月大湾へ 比謝 六四 三二三 波平に受入 一九四七年四月大木へ 一九五一 年比謝に 大湾 一二六 六四二 波平に受入 一九四七年四月大木へ 一九五一 年大湾に 比謝矼 四一 一八九 波平に受入 一九四七年四月大木に 長田 二六 一四八 高志保に受入 一九四七年四月大木に 計 三,四〇一 一七,九〇三 (ロ)交通機関(ハ)教育施設は紙面の都合によりこの次にいたします。