
人口 特集号躍進
広報よみたん 51/10 No.200 特集号 人口 昭和51年9月30日現在 世帯数 5,268戸 総数 24,969人 男 12,270人 女 12,669人 電話-2216:2293 消防-119:3933 発行:読谷村役場企画課 躍進 打ち返す雄大な波涛はあすの読谷村の躍進を象徴する。(怒涛くだける残波の岩はだ)
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広報よみたん 51/10 No.200 特集号 人口 昭和51年9月30日現在 世帯数 5,268戸 総数 24,969人 男 12,270人 女 12,669人 電話-2216:2293 消防-119:3933 発行:読谷村役場企画課 躍進 打ち返す雄大な波涛はあすの読谷村の躍進を象徴する。(怒涛くだける残波の岩はだ)
広報よみたん 20周年200号発刊を祝 村長山内徳信 読谷村の皆さん、今度、「公報よみたん」が発行され、ここに二十周年を迎え、二百号発刊を記念し!!特集号!!を発行することになりました。 読谷村の公報読谷」の前身である「読谷村便り」第一号が発刊されましたのが、一九五六年七月一日でありました。以来、二十年の歳月が経ち、公報よみたんの二十周年並びに二百号発刊を記念し担当者の努力と先輩各位の投稿による御協力によりまして、特集号の発刊が出来ますことを、村民と共に心から喜ぶものであります。 創刊号が発刊されましたのは、敗戦後の荒廃混乱した社会状況がやや落着きをとりもどしつつあった一九五六年七月でありました。 創刊の辞に『この「読谷村便り」は、読谷村のそのままの姿を写し出して全村民に読んで貰い、知って戴くための映写幕としての使命を持って出て来たものであり・・・希くば村振興発展の一役を担って発足する本紙のために村民皆様の御援助を切望いたします。』とその意義と役割が述べられております。創刊当時のものは、「ガリ版刷り」であり、当時の社会状況や役所の業務内掌の中で、関係者のなみなみならぬ御苦労の程がよくうかがわれるものであり同時に手作りによる心のぬくもりを感じさせるものであります。 ここにあらためて、二十周年二百号発刊を祝し、創刊当時から今日まで、「公報よみたん」の発刊並びに内容充実発展のため日夜御奮闘、御協力下さいました関係者の皆さんをはじめ、御意見、御投稿を寄せて下さいました皆さん、それを毎月愛読下さいました村民の皆さんに心から感謝し、厚くお礼申し上げます。 さて、「公報よみたん」の果す役割は大きく、その意義は極めて重大であります。 公報活動は、現在の民主主義社会の重要な要素であります。 本村の政治経済、社会教育、その他の諸活動を村民に知らすと共に、村民の声の広場として活用されて参りました。 「公報よみたん」の使命の第一は、村民と村政を結ぶ重要なパイプであり、第二は村民の声の広場として活用することであります。 第三は、読谷村の歴史づくりをしているということであります。 村政にたずさわる者として、村政の動きを村民に知らすことは義務であり、又、知ることは村民の権利であります。 知ることは理解することのはじまりであり、理解は協力への第一歩であります。 「公報よみたん」を通して、お互に理解を深め、協力体制を築き、読谷村が今後益々発展していきますよう皆さま方の御協力を御願い申し上げ御挨拶といたします。
広報読谷200号発刊によせて ここに「広報よみたん」第200号達成を記念し特集号を発行いたします。 「広報よみたん」の前進「読谷だより」は「村民に村政を広くお知らせする映写幕」として1956年7月1日に創刊され、以来今日まで20年の歳月を教えています。その間、幾多の変遷をえながらも、その1ページ1ページに躍進する村政の貴重な資料を刻々ときざみ続けてまいりました。 ……創刊当時は物不足、社会不安の中で他市町村に先がけ村民と村政を結ぶコミュニケーションづくりの場として編集者の方々は並々ならぬご苦労があったと思います。 …この特集号は、過去20年の村広報を振り返り、時の広報編集者、並びにご協力なされた方々に原稿の投稿をお願いし、広報づくりの苦労話し、村政の動き、社会の情勢等について投稿していただきました。 広報読谷二〇〇号によせて 沖縄土地開発公社参与 池原昌徳(元村長) 我が村の「広報よみたん」が発刊されてここに二〇年の歳月を経て、通算二〇〇号の発刊を迎えられたことに対し、心からおよろこびを申し上げます。 さて、御承知の通り、「広報よみたん」の前身は、「読谷村便り」であり、その創刊号は一九五六年七月一日でありました。その趣旨は、(一)、円滑なる行政運営を図る。(二)、民主的で住みよい村をつくる。(三)、村民経済の振興発展に役立てる。(四)、知らしめる義務と知る権利を実践してガラス張りの行政を行う。という趣旨で画期的な事業として試みたものと記憶しています。 ところで「読谷村便り」が創刊された当時の村役所は、村長ー伊波俊昭氏、助役ー知花成昇氏、収入役ー大城正夫氏で、そのもとに総務、財政、経済、土地の四課で職員数も四〇名近くでありましたが、この村便りを新しく発行するといっても、特に係職員を増やしたり、予算を増やしたりすることもなく、総務課がこれを担当していて課長の町田宗美氏が編集にあたり、重要な事柄は知花助役が執筆し、原紙切りは、この私が担当して謄写版刷りで発行いたしました。そして、第一号から十二号までの一年間はガリ版刷りにして極めて貧弱なものだったと今では思いますが、当時は、他村に先がけて発行し、且 つ従来このような広報がなかっただけに村民から大好評を受けましたので、私たちはとても愉快に仕事ができました。それで次年度の予算が大幅に増額されたので、内容面の充実は勿論、活字印刷にし部数も増やして広報らしい「読谷村便り」が発行されたのであります。 当時私は、財政課長でありましたが、その後、収入役として五ケ年、村長の要職にあること八ケ年、その長期にわたり、しかも米国の異民族支配下における困難極りない村政を担当してきたのでありますが、その間「読谷村便り」を通じて常に村政の実態について報告して参りました。して見れば村政の基本方針・目標実施計画・予算・決算・産業経済・社会教育・文化活動・民主団体の動き等・すべて「広報よみたん」に掲載されているのであります。 我が村の広報よみたん、それは正に村民の友であり村の歩みであり、村政の鏡であります。それで私はこの機会に、この「読谷村便り」を創刊された先輩の伊波村長と知花成昇助役の御両人とこれを継続発展させて村政の歩みを綴り、村民のありのままの姿を集録して名実共に充実したすばらしい「広報よみたん」を発行しつづけた村御当局の皆さんに対し深甚なる敬意を表わします。 終りに我が村の輝かしい未来を創造するために、建設的にして広く「広報よみたん」への寄稿と御愛顧のほど心からお願いいたします。
懐古雑感 沖縄県建設業協会専務理事 知花成昇(元村長) "読谷村だより"の発刊から数えて二〇年、二〇〇号になると聞いて、今さらながら歳月の流れの早さにおどろき、そしてよくも二昔のあいだ途絶えることなく続けて来られた御苦労に敬意を表し感謝の心でいっぱいです。 常日頃は仕事のいそがしさに追いたてられて、立ち止まり或はふりむき、過去をなつかしむなど心にゆとりがなかったことすら気付
〔200号4ページの続き〕 かずに走り続けてきたかといえば、少しオーバーな表現でありますが、とにかく二〇年になりましたか。 実のところ、そろそろ初老を感ずる年輩になり、「故きを温ねて、新しきを知る過去はすべて美しきものなり」ということですからここらで過去の美しさを懐想してみようかと思うような最近の心境でございました。そこに突然と申し上げると失礼になりましょうか、役場の広報係さんからの依頼で、「読谷村だより」創刊時の村政の動き、社会の状況、広報にまつわる話題など、二〇〇号記念に書いてほしいとの依頼をいただき、よろこんでお引受けしたわけでございます。 ところが、いざペンを取ってみると、頭の中は交通混乱を起こして、編集者の意図しておられる事は何一つ書けず、全く申訳なく思っています。結局は古い本棚の奥深く厚み重ねられた一番下の雑記帳を二~三冊取り出し、読谷村役所に赴任したころをめくって見ました。その中に一九五六年十二月二九日(土)のページに「午後から読谷村だよりの原稿を整理する」とあり、それ以前に創刊号は発行されたものと記憶しています。当時の広報はただガリバン刷の表裏二ページのささやかなものだった位しか記憶になく、創刊のことば等は残念なことに忘れてしまいました。 もし、今の様な社会情勢だったら、創刊のことばに「金銭や物質万能の思想に社会が支配され、社会の価値基準が大きく混乱、混迷の度を深めつつある現代の日本の世相に深刻な反省を求め………」などと書き出した事でしょうが、当時の読谷村は公民館活動が盛んで、婦人会、生活改善運動など県内各市町村から連日の如く視察団が来村していましたから、創刊号も明るい建設的な記事ではなかったでしょうか。創刊号以後の読谷村だよりが村役場に保存されていると聞いていますからぜび一度は読ませでいただきたいと思います。 私ごとで他の方々には別段興味を引く事はありませんが当時の雑記帳から一つ二つ転記して責任紙面をうめる事をお許し願います。 ※読谷村第四四六号 一九五六年五月二一日 読谷村長 伊波俊昭 印 波平区一班 知花成昇殿 助役選任について 本村助役に貴殿を選任致し度、去る五月十七日村会の同意を得ましたから了承下さるよう御知らせします。ーーという公文書がのりづけされて、私の読谷村役所時代のスタートがしのばれてなつかしく思っています。 ※一九五六年六月一日 助役辞令をいただき伊波村長の紹介で就任挨拶を行う。全職員三六名が出席。 午後、当山真志先生来所先生のお話の要旨、「闘争なき社会は進歩なし」とは共産主義者の言動である。話し合いの中に進歩的な意見をまとめ平和の裡に社会を改善していくことが理想である。と解かれた。ー当山先生の姿がまぶたに浮んでまいります。 ※一九五六年六月二0日 軍用地問題四原則貫徹村民大会ー午後五時読谷小学校にてー一括払い反対、新規接収反対など、ページをめくっていると明暗善悪種々な事があったものです。 最後に故人となられました役所の大先輩、知花英康先生、当山真志先生、伊波俊昭先生、仲本政公先生。宮本万次郎先生、並びに島田、知花清吉、知花清隆の三産業課長、前田蒲さん皆様の御生前の功積をしのび御めい福をお祈りさせていただきます。 「始めるのは易く、継続することは至難のことである。この継続こそは、物事を成就させる唯一の道である」と申します. どうぞ四〇〇号~一千号と読谷村の発展とともに、「広報よみたん」がいつまでも続き、伸展して行きますよう祈念いたしまして拙文を柊ります。
特筆すべき第一号の発行 読谷村商工会会長 安田慶文(元収入役) 過日役場で読谷村だより創刊号の古いガリ版刷りに接し、今昔の感にたえなかった。これは玉城真順氏が大事に保管していたとのことである。 民主主義社会において、言論の自由が最も重要な要素であるなら、行政と各部落、諸団体との結びつきや意志の疎通を図り、正しい批判を仰ぎ、民主行政を運営する上に公報の果す役割は極めて重大である。この頃では市町村自治体に限らずすべての団体組織が公報活動を行い、その成果をあげている。 一九五六年知花成昇氏が助役に赴任後、彼の経済企画室上級専門管の職掌が、数字と統計を基にした行政が行われ、その時に「読谷村だより」第一号が発刊されたことは、まさに特筆すべきことであろう。 爾来二〇年間幾多の変遷を経て、紙面も内容も充実し、今日二〇〇号発行記念に際し感慨無量目に見えなかった苦労をふまえて、今日迄順調に続けられていることは、その使命を充分果たしているといえよう。当時三十数名の職員が雑務の多い事務分掌の中で、よくぞ広報発刊にふみ切ったものだ。日頃は全く無縁の仕事でありながら、二〇〇号の発行は県内でも最も古い方だと思う。特定の執筆者のいない仕事の相間をぬって月一回の発行の裏には大変な苦労がつきものである。 あの頃村長は伊波俊昭さん、知花成昇助役、池原昌徳収入役のコンビに町田宗美さん、玉城真順さん、古堅宗光さん等がいた。職員も最大の努力を惜しまず、
〔200号4ページの続き〕 がむしゃらに働き、熱狂的な仕事の前には労基法も上の空、労働協約や就業規則もなく、無論割増賃金もない。だからこそ広報の発行もできたものと思う。労基法は制定されていたとはいえども、労使の関係は相互理解の上に立って人間関係で結ばれ、役所の企画に対して常に先輩方や各層の声が村だよりに投稿され、なかでも故人の知花英康先生比嘉良平先生には村の優れた伝統や歴史等いろいろ寄せていただいた。 人間は進歩してやまぬもの、常に近代感覚で行政に対処しなければならない。 小生役所で次の三氏に仕えたが、伊波村長が役所構内の果樹は村民が盗るなら致し方ないじゃないか、柵は不用と寛大な人柄を偲ばせ、知花村長は人間平等の立場の上で職員と肩を抱いて酒を吸み交し、池原村長は三味線を弾いて美声を披露する等、ユニークな人間味が職場をなごやかにし、魅力的なものにした。又、歴史に示された諸先輩、歴代村長も素晴らしい足跡も見逃がせない。 広報よみたん二〇〇号発行に投稿を依頼され改めて二〇年の歳月が恋しくてならない。市町村行政は最も住民と接触する第一線だといわれており、編集者の努力と情熱によって村行政を広く村民に知らせると共に極めて貴重な資料として村の繁栄に役立つ事だろう。
広報雑感 村役場厚生課厚生係長 仲村渠正男 「広報よみたん」が二〇〇号を迎えるという、まことによろこびにたえないものだ。創刊号発行以来二〇年、よく今日までつづけられたものだ、僕が広報マンであったのは約ニケ年間であった。時には記事を集めることができず欠号させたりし、よく村長におしかりを受けたもので本当に惨たんたるものであった。カメラをかついで広報マンよろしく取材活動に行くものの性来のなまけぐせと文才のなさは、いかんともしがたく原稿締切の日が迫るとイライラし、いっそのこと役場を辞めようかと思う時も何度かあった。 「広報」は、村政と村民とのパイプ役という事は百も承知しているものだか、いざ発行して見ると、行政中心の宣伝記事になってしまい、全くの一方通行になっている。これでは、村民が見向くはずがなく、読まれもしない。これでは広報なんて発行する意味がないのではと思ったりもした。大体、役所仕事のお固い広報記事なんて読まれる記事としての魅力は最初から欠けている。しかし、何んといっても村民に読んでいただける広報をつくらねばならないもので思案にあけくれるのであった。 そこで、広報マンの最大限の知恵をしぼって企画するのであるが、悲しいことに、読まれる広報の迫力に欠け、それでも無理だと思いながらも企画をする訳であった。「部落めぐり」、「学校紹介」、「会長さんこんにちは」など思いつき企画をしたものの当然の事がら長続きせず、失敗になってしまった。つぎに広報マン泣かせば日刊紙である。村の行事や事件等は翌日のタイムス、新報で報道されるのでいつも日刊紙の後追だけさせられる。それでも「広報」で知らせねばならない、従って新鮮味がうす れ、広報発行以前にそのニュースは村民の間には知られている。「広報」は、限られた紙面でより読みやすい文章にしなければならないし、日刊紙と異った視点から取材しなければいけないのだから、これは大変だ。大変だが記事を書かねば仕事にならない。役場の広報担当というのは、別の業務を兼務していながら一人で取材、編集、レイアウト、校正まで一人でやらねばならない。そこで一人三役、四役も兼ねるのであるから時々ヘマをする事もある。特に、誤植、欠落など困ったことがあった。僕の時に村民税金の連続完納の記事の中である部落を見落してしまった。そこでポスから大変なおしかりを受けた事があった。意図的に抜かしたものではないが、受ける側からは、そう簡単には受け取れないようで、特に地域的感情が入り混ると事は重大になり、校正にはよ程慎重にしなければならないものだと痛感させられた。 ところで、広報マンは苦労の連続ではない。村民との対話をすすめる先端の役を果している重要な職員であるという事を自負している。特に、編集、レイアウトをして印刷にまわし、発行前日ともなればワクワクし通しだ。印刷できあがりのインクのにおいがしみる「広報よみたん」を手に取って見た時、何んとも言えないよろこびを感じるものだ。それは農家が心を込めて育てあげた作物を収穫する時のよろこびとまったく同じで広報マンでしか味わうことのできないよろこびがあるものです。 「広報よみたん」、それは躍進読谷の象徴である。 以後、三〇〇号、四〇〇号と村民と村政のパブリックリレーションズとしての役割を果してほしいものです。
編集の窓 ここに「広報よみたん」第二〇〇号発行に際し、諸先輩方に原稿の投稿を御依頼申しあげましたところ、心よくお引き受けいただき誠にありがとうございました。 広報は、行政と住民を結ぶコミニケーションづくりの最先端を歩むものでありその責務はかつ重要だと思います。今後とも村民と村政のパイプ役として、認識新たに、村民に親しまれる広報、読まれる広報づくりにつとめたいと思っています。 これからも御教示をよろしくお願い申し上げます。
広報 200号のあゆみ 村政の貴重な資料を綴りつづけて二0年。「広報二0年」の村政とパブリックリレーションズとして果たしてきた役割は大きいものです。広報二0年の歳月の中には村政のさまざまなできごとが活字となって残され保存されています。 広報二0年「二00号」達成を記念に創刊号のガリバン刷り広報から今日の広報にいたるまで、時の話題、村政の動きを「年録」につづり紹介いたします。 また、話題の記事・写真も紹介いたします。 ※一九五六年 七月一日 「読谷村だより」創刊号発行す(ガリバン刷り) 七月二九日 古堅区獅子再誕生祝賀会 八月四日 読谷村土地を守る会結成大会(三〇〇〇人参加) 八月十一日 村新生活運動協議会発会 九月二六日 製糖工場建設工事入札 十月二五日 琉球政府行政主席、比嘉秀平氏急逝せられる 十月二九日 琉球大学校庭において琉球政府行政主席・故比嘉秀平殿の政府葬営まる 十一月十八日 渡ケ次公民館盛大に落成祝賀会行なう 十一月二四日 楚辺区公民館落成・水道工事完了、伊波俊昭氏村長就任祝賀会 ※一九五七年 三月三0日 役所新庁舎落成 四月二三日 八重山視察団出発 七月二四日 眠った畜力講習会ー畜力利用で生産性の向上を 七月三〇日 衛生優良村として主席から表彰さる(当間重剛) 八月一日 「読谷村だより」ガリバン刷から活字印刷へ 十一月十七日 村青年会第一回駅伝大会催すー読谷校区優勝 ※一九五八年 三月十六日 立法院議員選挙行なわる 九月九日 四原則貫徹渡米代表激励住民大会 七月号 八重山米原開拓団から母村へなつかしのたより 七月号 五九年度予算決まる。総額八百八拾万円也(B円) 七月十九日 屋良朝苗氏の沖縄タイムス賞受賞祝賀会 九月十四日 B円からドルへ通貨切替される十九日まで 十月十九日 第六次ボリビア、第五次ブラジル青年移民団出発二九名が鹿島立ち ※一九五九年 二月十二日 村民会館地鎮祭 二月二五日 緑地運動推進協議会 三月七日 樹苗八七〇〇本植樹 三月二十一日 好成績で製糖終了、産糖高四三六二挺 四月三〇日 村育英会設立総会 六月一日 村民会館落成 六月三〇日 石川市宮森小学校に米軍ジェット機墜落被災者見舞 八月二四日 村営火葬場落成 十月十三日 ナイキハーキリーズ発射実験阻止陳情 十月十五日 ナイキ発射実験阻止協議会 十月十九日 観音堂例祭、役所職員記念植樹祭 十月三〇日 第一回ナイキ発射行わる ※一九六○年 四月九日 知花成昇氏十四代村長に就任 四月十八日 第一〇次ボリビア移民団雄飛(七八名) 七月三〇日 タバコ栽培講習会行なう 八月二六日 緑化優良村として表彰 十月七日 新生協ー新正一本化について協議 十二月一日 全琉いっせいに国勢調査実施 ※写真は原本参照