19日92名の移民鹿島立ち戦後最大の南米移民 ”開沃土拓運命 我等家五大洲”
19日29名の移民鹿島立ち 戦後最大の南米移民 “開沃土拓運命 我等家五大洲” 政府社会局によって政府計画移住者として労力、職業、健康、経済、精神、教養的要素等各方面からの厳重な選考に合格された池原正次さん外二十八名の方々が十九日那覇港を出港された。 戦前一万五千人台を維持していた読谷村の人口は今次の大平洋戦争において三千余人の犠牲者を出したが一九四六年から四八年にかけて日本、南洋群島その他外地からの復員軍人、軍属並に民間引揚者の千九百人を受入れたので一、九四七年末の総人口は一万四千参百四拾五人となった。海外引揚者の最も多いのは日本で九百八拾四人、南洋郡島四百八拾七人、比島百六拾七人、支那百五人、台湾九拾六人、満州三拾五人、朝鮮二拾六人の順で日本を除いては南洋、比島がその主体をなし土地に溢れる人口過剰、軍雇用縮小等の現実の悪条件を克服するには海外新天地への雄飛発展が強く要望されている。 戦後における移民出しの主なるものは八重山開発移民の送出がある。琉球政府の経済政策、人口対策としての八重山開発計画第一回農業移民に一、九五二年八月楚辺及波平から二七戸一二二人が参加石垣島桴海地区に移住、爾来政府の計画に基き一、九五四年六月野底地区に楚辺、伊良皆、波平から十六戸七十二人、一九五五年四月伊原間地区に喜名、楚辺、座喜味から十六戸九十八人、合計五十九戸二九二人を八重山開拓移民として送出している。 海外への移民は一九五四年ボリビア計画移民として六戸二十二人、五五年に三戸六人、五八年に二戸十三人が移民した外自由移民の実現に伴いブラジル、アルゼンチンその他南米各国への呼び寄せ移民も三五名が送出された。 今回のボリビア移民団は全沖縄から二百七十一人という戦後はじめての大がかりな南米移民団であるが、読谷村としては戦前戦後を通じて最大の移民であろう。海外の沃野に理想郷の建設をめざして勇躍壮途につかれる皆様の前途に幸多く、先に移民された皆さんと共に発展されるよう全村民一九、○○○人は挙ってお祈りを捧げたいと思います。 百勇みいさみ 百衆押しちりて 開く嘉利吉の 道の飛るさ ※備考:下記の文章は原本文中に記載されているが、つながりがない文章であるため、備考として入力する。 ていた。戦前の経済は移民者による海外送金によってその大きい部分を支えて来たが、戦後は海外各地からの多数の復員、帰還者があって人口は激増の一途をたどり狭い ※「第六次ボリビア移民渡航者名簿」は表のため、原本参照。