第2回平和創造展 戦争をするのも人間であるしかし、平和を築きあげることのできるのもまた人間である 【写真:3】
今月の主な内容 第2回平和創造展・・・1~5P 年末年始交通安全・・・5P クニー山壕遺骨収集・・・5P 1989年を振り返る・・・6~7P 歴史物語・・・8P 保健婦だより・・・9P 村民のこよみ・・・10P
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今月の主な内容 第2回平和創造展・・・1~5P 年末年始交通安全・・・5P クニー山壕遺骨収集・・・5P 1989年を振り返る・・・6~7P 歴史物語・・・8P 保健婦だより・・・9P 村民のこよみ・・・10P
「日米開戦の日」の十二月八日より十二日までの五日間「第二回読谷村平和創造展」が開催され、日常生活の中から戦争とは、平和とは何かを共に考え、みんなの手で平和郷を築き上げようと、会場中央公民館ホールには、連日村内外より大勢の人々が訪れました。 開会にあたり山内徳信村長は「平和は守って行くものではなく、築き上げて行くものです。本日は太平洋戦争の始まった日。沖縄には六月二三日、八月十五日と忘れてはならない日が多すぎます。一九四五年四月一日、米軍上陸地点となったのは、ここ読谷村であ りました。戦争を知らない世代に.戦争の悲惨さを伝え、人間、人権を大切にする平和郷を創造して行きましょう!」と力強くあいさつしました。 会場には、その昔「武器を持たない島」として平和郷を築き上げた我が琉球、我が読谷山の人々のゆたかな歴史・文化がパネル、民具、模型等で紹介される一方、誇り高き友好民俗沖縄の人々が戦争一色にぬりつぶされて行く沖縄戦へと一転して行きます。 米軍上陸、鉄の暴風荒れ狂う殺りくと載りつの日々。痛痕のきわみチビチリガマ、クニー山壕の集団自決。 沖縄史上かつてない地上戦で数十万の尊い生命が奮われ、辛酸をなめつくした沖縄県民の姿が、廃虚と化した沖縄の姿がありました。あれから四十四年、今尚、村全土の四八パーセントを軍事基地で占められ、基地あるがゆえの事件、事故は後を絶たず基地闘争は続きます。 そして、沖縄に潜む核疑惑に広島、長崎の被爆写真は、警告を発しています。 明るくたくましい読谷村民は先しんしゅきしょういま人達の進取の気性、勇敢さを現代に受け継ぎ、「人間性豊かな環境・文化村づくり」、「平和郷づくり」へと地域ぐるみで取り組み、明るい未来へと翔く。
1945年4月5日 、午前1O時30分、私は最初の捕虜を見た。兵士達が読谷飛行場から連れて来たのだ。かわいそうに、小さな子供と女と老人ばかりだ。もしそれが少しの慰めにでもなるのなら、私も彼らとともに座って泣きたいくらいだ。この人達は、何年も何年もここに住んでいるの だ。ここは彼らの生まれた土地で、彼らはずっと幸せだったと思う。 しかしどうだろう。いわゆる文明というものを持って我々がやってきて、人を殺し、強姦をし、そしてこの人々の生活と家を破壊した。この人達には何の罪もないのだ。彼らは この島々の原住民で、何千年もここに住んでいるのだ。彼らは日本人ではない。また、誤 解のないように言えば、私の知るかぎりでは、日本人といえども大変素晴らしい人々のように見える。我が国の政治家達が我々に宣伝してきたことはまったくバカげたものだ。ここ で私は、この殺戮に自分が関わったことに対し、神の許しを乞いたい。 国頭の避難小屋 沖縄児は米軍の本局.L陸.を前に、一一般住民の国頭疎開を計画した。国頭村の既存民家だけではこれだごけの人々を収容することができないため、更に収容小屋を造ることになった。これを受けて国頭村では2月17日に村長から各字に再度の「疎開者割当変更通知」があり、最終総計18,000人の避難民が国頭全域に配置され、3月21目までに5,072人か入村した。読谷山村民約6,390人の避難指定地域は国頭村浜から伊地までの8部落であった。早い時間に避難した人々は集落内の民家へ、その後は山手の避難小屋に入った。それよりさらに遅れた人達は自分たちで立木を集めて簡易小屋を造ったようである。 国頭村比地集落の山手後方に約2キロメートル程行った所に、ナゴー山アミガーと呼ばれる地域がある。現任はミカン畑になっているが、そこに戦時中、読谷村民のために比地住民によって20軒前後の避難小屋が造られた。その避難小屋について、比地及び避難した人達から聞き取り調査してこれを再現した。が、戦後44年も経っているため、`証言者の記憶は不充分な面が多く、詳細については必ずしも正確ではない。 これまでの調査によると、避難小屋は正面3間、奥行き2間半の間取りで、その中心で2間に区切り、1軒に2世帯が生活していたようである。今回は展示スペースの関係でその半分の一所帯分を再現した。
読谷飛行場用地は、読谷村第一の平野である。この平野は戦時中日本軍の臨戦飛行場として接収され、戦争が終れば土地は返す」と説明が行われた。今それが、やっと果たされようとしている。 この用地を器として、21世紀に向けた新しいむらづくりが歩み始めるのである。それは、戦争にうちひしがれ、基地の重圧に呻吟してきた村民の未来に対する夢と希望の実現であり、子孫に対し、より文化的に,より平和的に生きんとするむらづくりの実践の場所である。 さらに、21世紀の歴史の此判に耐え得るむらづくりの拠点として、沖縄の亜熱帯農業の黄金の花を咲かせ、かつ公共公益施設を位置づけ、人々の英知を結集し、従来の発想を超えた人間の夢とロマンを実現する中心地域となる場所である。
去る十一月二十九日より始まった厚生省遺骨収集団(高野実団長)による読谷村長田原クニー山壕(嘉手納弾薬庫地区内)の遺骨収集作業は、遺骨一柱も見つからないまま十二月十二日作業を終了終了した。 壕内には十五柱が眠っていると言われ、そのほとんどが伊良皆区民。必至の作業にもかかわらず、遺品二、三十点が収集されただけ。生存者の確かな証言があっただけに、遺族らの新たな涙を誘った。 クニー山壕は、金網を張りめぐらされ普段は入ることできない基地の中。戦後四十四年の歳月はあまりにも長すぎた。
実施期間12月23日(土)~1月6日(土) スローガン 交通安全は、心のふれあい、ゆずりあい あなたを守る交通マナー 運天重点目標 (1)交通三悪の追放 (2)若手運転者の交通事故防止 (3)子供と高齢者の交通事故防止
主なできごと 1月6日 村消防出初式 1月15日 第25同村成人式 2月1日 総務課電算係設置 3月4~5日 第13回公民館まつり 3月11~12日 ユンタンザむらおこし物産展一「紅イモシンポジウム」 3月23日 水釜一大木線橋りょう下部工工事起工式 3月25日 村営瀬名波団地完成 3月29日 読谷村ノーベル平和賞を夢みる村民基金設置 3月29日 名誉村民条例制定 4月1日 村立診療所長に松嶋顕介先生 4月1日 村教育長に岳原宜正氏 4月11日 村赤十字奉仕団結成 4月15日 村営残波ビーチ完成・海びらき 4月23日 ゆんたんざぐすくフォーラム 5月14日 第7回福祉運動会 5月18日 宇宙展望広場開園 5月21日 村子ども会十周年記念式典 5月21~28日 第9同村アンデパンダン展 5月30~6月4日 読谷山花織三越展 5月31日 第25同村老人クラブ大会 6月4日 '89沖縄マスターズ残波岬駅伝大会 6月10日 古堅南小学校プール開き 6月15日 読谷村第二次総合計画・基本構想策定 6月15日 屋良朝苗氏・金城次郎氏初の名誉村民に 6月24~25日 第5回残波まつり
主なてきごと 7月16日 村婦人の主張大会 7月17日 村青少年健全育成・交通及ぴ水難事故防止大会 7月20日 村立歴史民俗資料館建築工事完了 8月3~8日 池田町・読谷村児童交流 8月5日 学力向上対策地域懇談会 8月1O日 村名誉村民称号授与式典 8月12日国道嘉手納バイパス建設促進読谷村基成会 8月21日 読中男子ソフトボール春夏全国制覇 8月22日 村交通安全母の会結成 8月23日 参議院議員選挙 8月27日 浜屋地区土地改良総合整備事業完了祝賀会 8月31日 村老人主張大会 9月2~3日 第6回健康づくり村民のつどい 9月17日 第42同村陸上競技大会 10月3日 第17同村畜産まつり 10月5日 村デイケアサービス開始 10月22日 村老人運動会 10月23日 読小郵政大臣賞受賞 10月29日 古堅南小マーチングバンド九州大会金賞受賞 11月4~5日 第15回読谷まつり 11月19日 村婦人会演芸のつどい 11月29日~12月2日 クニ一山壕遺骨収集作業 11月29日 創立25周年記念老人クラブ大会 12月4日 福岡ダイエーホークス平和の森球場をキャンプ場に決定 12月5日 村宮崎賞を受賞 12月8日 ユンタンザ夢づくりマチづくりシンポジウム 12月8~12日 第2回平和創造展
平成二年度、村立及び法人立保育所の新入園児童の受付を一月十日より開始します。 入所定員は、村立が一八○名、法人立が二七〇名の合計四五〇名です。 申請書類及び添付書類等を揃えで役場厚生課まで申込み下さい。 □受付期間 平成二年一月十日から 平成二年二月十日まで □受付場所 読谷村役場厚生課 □申請書類 生課及ぴ各保育園、各字公 民館に準備してあります。 □添付書類 (1)平成元年分源泉徴収栗 (2)平成元年度分村県民税及び固定資産税の納税証明書 (3)勤務証明書、自営業、内職、農業従事証明書 (4)母親が出産及び病気等の場合は医師の診断書 (5)母親が病人の看護をしている場合は病人の看護証明又は医師の診断書 □保育園へ入園できる基準 保育園へ入園できるのは、保護者のどちらも次の各号のいずれかに該当し、その児童の保育ができない場合です。 ただし、保護者に代って保護する人が家庭内にいる場合は除かれます。 (1)昼間に居宅外で労働することを常態としていること。 (2)昼間に居宅内で当該児童と離れて日常の家事以外の労働をすることを常態としていること。 (3)妊娠中であるか又は、出産後間もないこと。 (4)疾病にかかり、若しくは負傷し、又は精神及び身体に障害を有していること。 (5)長期にわたり疾病の状態にあるか、又は精神及び身体に障害を有する同居の親族を常時介護していること。 (6)震災、風水害、火災、その他の災害の復旧に当っていること。 (7)村長が認める前各号に類する状態にあること。 □保険料 保険料」は均一的に同額ではなく同一生計を営む扶養義務者全員の所得税額、村民税額、固定資産税額及び児童の年号などによって決定され、各家庭で異なりますのでご了承下さい。 ※入園手続についての詳細は役場厚生課までお問い合せ下さい。 (TEL八-二二〇一)
巳年ももう終る。次は午年だ。 この子丑寅を十二支といい、中国で三千年以上も昔から、年月日を記すのに使われてきた。元元動物とは無関係な.のだか覚え易くるため、身近かの動物の名におきかえたのだという。その由来については、何しろ大昔のことなので定かでなく、こじつけじみた話も多い。 子は鼠算の譬え通りの多産の鼠を連想して。丑と牛の発音が昔は同じだったので。寅の元の意味は家の中で恐れ慎んでいる姿、恐ろしいのは虎だから。卯の宇の形から兎の耳を連想。辰は地震の震から竜を連想。巳の古刀字は巳で蛇そのもの。午は伍(仲間)でいつも仲間連れは馬末の昔の音は羊の声に似ていたから。申は伸(手足を伸ばす)で猿の動作。酉はで酒壷だが、鳥は適当なのがないのでこれに当てた。戌は武器で威る、犬は吠えて威す。亥と家(猪)の古字の形が似ていたから。 十二支は時刻や方位にも使った、夜の十二時が子の刻で昼の十二時は午。これで午前午後の意味もはっきりする。「草木も眠る丑三つ時」の幽霊時間といえば午前二時ごろ。 「夜走ラス船や子方星見当ティ」 とは北の空に輝く北極星のこ之。地図の南北の経線は子午線である。