
【見出し】あけましておめでとうございます 【写真:1】人間性豊かな環境・文化村」をめざして
本村は、村民主体、地域ぐるみ、風土調和の三原則をかかげ、「人間性豊かな環境・文化村」づくりを目標として「21世紀の歴史の批判に耐え得る村づくり」を合い言葉に、行政も村民も力を合わせてまいりました。 復帰20年、憲法の理念を生かし、平和の創造と基地を除き文化村づくりに夢とロマンをいだき全力を尽し、今年も頑張りましょう。
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本村は、村民主体、地域ぐるみ、風土調和の三原則をかかげ、「人間性豊かな環境・文化村」づくりを目標として「21世紀の歴史の批判に耐え得る村づくり」を合い言葉に、行政も村民も力を合わせてまいりました。 復帰20年、憲法の理念を生かし、平和の創造と基地を除き文化村づくりに夢とロマンをいだき全力を尽し、今年も頑張りましょう。
新年を迎えて 読 谷 村 長 山 内 徳 信 村民の皆様! 明けましておめでとうございます。謹んで新春のご挨拶を申し上げます。 村民の皆様方には、希望に燃え新たな決意で新年を迎えられたことと思います。 一九九二年(平成四年)の年頭に当り、村民各位のご多幸とご活躍を心からお祈り申し上げます。 歳月の経つのは誠に早いものであります。沖縄の言葉に「歳月ヌハイや馬ノハイ」と言われておりますように、あまりの早さにただ驚くばかりであります。 昨年は村民各位におかれましては、読谷村発展の為に、ご指導、ご声援、ご鞭撻を賜り誠にありがとうございました。心から敬意を表し、感謝を申し上げる次第であります。 激動の世界にあって真実の歴史を見抜く人間になろう 世界の情勢は、米ソの対立から平和・協調へと変化する中にあって、局地的に民族の独立、自由、解放を求める闘いがありました。 国内的には、バブル(泡)経済はたんの破綻、証券疑獄、実行しない政治改革論議、これらの国内問題から国民の目を国外にそらす為(?)に、国際貢献論の美名の下に、国連平和維持協力(PKO)法案を、衆議院特別委員会で強行採決。平和憲法を犯し、憲法違反の自衛隊を堂々と海外派兵の道を開こうとする政府の政治的動きに、国民の厳しい監視の目が必要であります。 日本国民は国際貢献そのものには誰も異論はなく、太平洋戦争の教訓と反省、憲法九条の立場から自衛隊(軍隊)の派遣に反対しているのであります。 憲法の範囲内で、別途、国民的組織をして「国際貢献団」を作り対応する。それが平和憲法下における日本の正しい姿であり、アジア諸国をはじめ、世界各国から信頼され、高い評価を受ける道であろうと確信するのであります。 さて、今年は沖縄が日本復帰して二十年目になります。復帰の時、政府の公約は「核抜き本土並み返還」でありました。その公約は守られず、基地機能はますます強化され、演習は激化し、戦場さながらの基地の島であります。これを政治的『差別』、『県民無視』と論断せずにはいられないのであります。 このような内外の状況の中にあって、読谷村内の一年間の動きを見ますと、村づくりが一層充実した方向へと歩んできた年であったと思います。 ▼第十七回よみたんまつりは、関係者のご努力によって、いやが上にも盛り上り感動の連続でありました。老若男女、村民総参加の手づくりの読谷まつりは、そのまま読谷村の明日を担う人づくりにつながるものであります。 ▼長浜ダムの定礎式典が厳粛の内に、長浜の芸能チクタヌメーの先導によって古式豊かに執り行われました。これは読谷村にとって後にも先にも体験することの出来ない貴重な行事でありました。ダムの完成によって、読谷村の農業は飛躍的な発展をとげ、農家所得は増え、地域経済の振興に大きく貢献するものであります。 ▼西部連道土地改良事業の完工記念碑の除幕式と記念式典が盛大に開催されました。これは米軍の作った本土爆撃用のボーロポイントの返還跡地の有効利用の壮大な事業であり、恵み豊かな土地に生れ変わりました。 ▼下水道事業については、関係者のご理解とご協力を仰ぎつつ、施設用地の準備が進みつつあります。 ▼読谷村内最後の水泳プールが読谷小学校で建設中であり、子供達が大きく期待しております。▼読谷村立美術館並びに村立歴史民俗資料館は、文化村づくりの中核的施設として、ユニークな企画展が開催され、内外の多くの人々から親しまれ、高い評価を受けております。 ▼読谷村内各小中・校とも一生懸命頑張り、各分野で輝やかしい成果を上げております。南小のマーチングが県代表として、一月に全国大会(東京)へ出場します。読高野球部の県内優勝、九州大会ベスト4進出は見事で、春の甲子園大会出場決定の知らせを待ち望んでいるところであります。今回の読高野球部の快挙は、読高の生徒のみならず、小中校生、村民に大きな自信と誇りを与えてくれました。 ▼第四回読谷村平和創造展が開催されました。今回の特色は、従来の物に加えて、日本の真珠湾奇襲の写真資料、旧日本軍による中国侵略戦争(三光作戦)の実相等、思わず目をおおいたくなるような残酷なふるまいをする日本兵の写真の前に立って「日本兵は一体何んであったのか」………と。戦後四十六年、戦争犠牲者の声が、歴史の真実の声として国の内外から政府につきつけられてきた。日本の犯した過去の過ちは、おおいかくすのではなく一度全部表面に出して、歴史的事実として反省し、償い、教訓を未来に生かしていくという思想、すなわち、加害者であったと言う認識に立って行動した時、アジアの国々との信頼関係が築かれていくのであり、そのことを学校教育の中で、きちっと教えていける文教行政の確立が重要であります。 一切の歴史の苦難と抑圧に耐えて生きて来た島「基地の島沖縄」からは被害者としての意識と加害者としての意識の両方がよく見えるのであります。 最後に、本年度も読谷村発展の為、決意も新たに役場職員一体となって頑張って参りますので、村民各位の一層のご指導、ご鞭撻をお願い申し上げますと共に、村民の皆様方がご健康でお幸せでありますよう祈念申し上げ、新年のご挨拶といたします。 年頭の挨拶 読谷村議会議長 儀 保 輝 和 一九九二年の年頭にあたり読谷村議会を代表して、謹んで新年の御挨拶を申し上げます。 「村民の皆様、あけましておめでとうございます」 一九九一年を顧りみますと、世界の流れが対立から対話へと、東・西(南・北)関係の緊張から和平への歩み寄りの中、中東に於ける、イラクのクウェートヘの侵攻によってもたらしたイラク対多国籍軍の湾岸戦争は、さながら子供達がテレビゲームを楽しんでいる様な錯覚をおこす位に吾々の日常生活に飛び込んでまいりました。 電子戦争ともいうべき、ハイテクを駆使しての戦争がマスメディアを通じて、お互の茶の間のテレビで見るに至っては、宗教・民族間の問題と伝えども、戦争という愚行は、戦争をする者達の死で片付くものでもなく、あらゆる影響を周辺に与え、この地球に与えて、21世紀の担い手達にこの地球を託すには、あまりにも大きな瑕疵を残した様に思います。 また、東欧やソ連に於いては、民族独立運動やソ連邦の崩壊と、世界はめまぐるしく変わっておりますが、吾が日本は!、吾が沖縄県は!、吾が読谷村は!と、想いめぐらしますと……。 吾が沖縄県は、祖国復帰20周年の節目として、種々な催しが企画されると思います。 沖縄県は、一次振計・二次振計と、これまで継続して、社会資本の整備等が進められてまいりましたが、まだまだ本土水準には程遠く、私供県民は第三次振計の策定と高率補助の継続が、沖縄県を本土並み経済水準に引き上げる、最重要課題だと思います。 行政関係、議会関係にあるものは、政府関係にそれぞれの立場で働きかけねばならないと思います、本県に於ける課題も山積されておりますが、本村の最重要課題としての、「読谷飛行場の問題解決」も、日米合同委員会に於ける基地機能の移設合意から十一年を経過しておりますが、パラシュート降下訓練は、いまだ続けられており、根気づよく撤去運動を続けていかなければならないと思います。 さいわい!、国道嘉手納バイパスの路線が「読谷飛行場転用計画」の路線に添った形で計画がなされ、地域説明会が始まった事に具体的な動きとしての読谷飛行場問題解決の一面が見られる様な気が致します。 将来の読谷村の行政の中心としても、役場・議会等、庁舎も「庁舎建設委員会」の答申を受け、読谷飛行場の中に位置づけがなされ、これまた具体的な動きとして、庁舎建設の為の基金積立を開始しており、幾つかの問題を残しながらも確実に前進を致しております。 村民の皆様が、これまで行政や議会に寄せられました御厚情や御協力を旧に倍にして御指導頂ければ、そう遠くない。近い将来にはかならずや「読谷飛行場の問題解決」は実現するものと思っております。 私供、議会も村民と共に尚一層の努力を重ねてまいる決意であります。 村民の皆様の叱咤激励をよろしくお願い申し上げまして年頭の挨拶と致します。 読 谷 村 議 会 議 長 儀 保 輝 和 〃 松 田 政 弘 副 議 長 知 花 治 雄 〃 比 嘉 光 雄 議 員 比 嘉 光 義 〃 屋 良 政 信 〃 盛 島 秀 貞 〃 与那覇 真 一 〃 比 嘉 蕃 信 〃 当 山 真 市 〃 島 袋 勝 盛 〃 新 垣 昇 〃 仲宗根 盛 敏 〃 松 田 光 政 〃 佐久間 盛 夫 〃 池 原 伝 雄 〃 比 嘉 秀 哲 〃 当 山 弘 〃 知 花 勝 〃 伊 波 盛 永 〃 山 城 正 輝 〃 山 内 昌 治 事務局長 屋 宜 光 正 ※続く。
新年のごあいさつ 読谷村教育長 岳 原 宜 正 明けましておめでとうございます。 謹んで新年のごあいさつを申し上げます。 みぐて春来りば 常磐なる松ん 緑さしそえて 色どまさる 平成四年の輝かしい新春を迎えられ、村民の皆様にはますます御健勝のことと、お慶び申し上げます。 正に新春のよろこびは、見るものすべてが、あの松の緑のように美しく、心も晴々と新しい希望に燃えるものでございます。 過ぎし未歳は、正に世界的に激動の年でございましたが、本村におきましては全村民の温かい村づくりの御情熱と御協力によりまして、すべての面において大きく隆昌発展を致し、実にめざましい成果をあげて参りましたことは、皆様と共に大変よろこびに耐えません。 お陰様で、本村の教育も、学校教育並びに社会教育等全般にわたって、大きく充実発展しておりまして心から喜びと、感謝と、敬意を表する次第でございます。 今、村内の幼、小、中校の各学校においてはそれぞれに智育、徳育、体育の調和のとれた教育の推進をめざして、全校が県及び読谷村教育委員会の研究指定校として、積極的旦つ情熱的に研究実践を重ね、学校、家庭、地域が一体となって、次代を担って立つ青少年の健やかな成長発達を願って、大変充実した教育活動を展開しております。 このように、明るくのびのびと活動する児童生徒達の姿の一端は、あの壮大な第十七回読谷まつりにおいて発表披露されました数々のすぐれた作品や、精錬された演技の中で充分御覧戴けた事と思います。 更に、児童生徒達の対外交流では、あの雪国の北海道池田町児童生徒との交流事業も、ここに十回目という輝かしい歴史をうち立て、いよいよますます充実し発展をして参りました。又宮崎県日向市子ども会と読谷村子ども会との交流学習会も十二回目を数え、大きな成果をあげております。そして平成元年に発足しました山形県最上広域交流事業も、大変順調に三年目の活動に入り、児童生徒達はそれぞれの持ち場において大変親密で充実した交流学習を展開しております。 又各学校における対外的教育活動(文化活動、スポーツ活動等)もめざましく、古堅南小及び古堅中のマーチングバンドは共に県大会及び九州大会で見事金賞を獲得し、古堅南小のマーチングバンドは近く東京で開催される全国大会に、九州代表で出場することになっています。又読谷中音楽部はリコーダーコンテスト全国大会で、見事金賞の栄冠を射止めております。その外に、古堅小は校庭美化コンクールで優秀賞を受賞し、喜名小は県教育委員会より学校環境モデル校に指定され、外来の参観者も多い、読谷小は近代的なオープンシステムのすばらしい校舎に改築され、大変充実した学習活動が展開されております。又、渡慶次小は中部地区ミニバスケット大会で見事優勝を果し、近く県大会に駒を進めることになっているが極めて優勝の可能性が強く、今選手達は全国大会をめざして頑張っています。 読谷中のテニス部も沖縄大会、九州大会で優勝し全国大会に出場してよい成績を納めました。更に特筆すべきは読谷高校野球部のあの活躍です。今年のチームは体こそ小柄だがその内に秘める根性と技量は抜群で、見事全沖縄を制覇し、九州大会ですばらしい成績を納め、夢の甲子園春季選抜大会出場という大偉業の日が近づいて参りました。正に全村民の感動と喜びの日です。挙って大支援をお願い致します。 このように村内の児童生徒達の活躍は目ざましく、平成四年度も更に更に飛躍発展致しますように祈念し、皆様方の教育に対する絶大な御支援御協力をお願い申し上げます。平成四年度は更に各学校の基本的施設設備の充実を図り、児童生徒達の「基礎学力の向上」「生活指導の強化」の教育課題の推進に皆様方と共に努力精進したいと思います。 最後に村民各位のますますの御健康と御多幸をお祈り申し上げ、新年のごあいさっと致します。 あけましておめでとうございます 村 長 山 内 徳 信 助 役 安 田 慶 造 収 入 役 池 原 恒 徳 教 育 長 岳 原 宜 正 総 務 部 長 松 田 重 信 民 生 部 長 仲宗根 憲 栄 建設経済 部長 新 垣 喜 一 総 務 課 長 池 原 伝 盛 企 画 課 長 新 城 正 雄 税 務 課 長 知 花 正 行 厚 生 課 長 与那覇 守 丈 環境保健 課 長 上 地 武 雄 保険年金 課 長 松 田 兼 一 住 民 課 長 金 子 ユリ子 経済振興 課 長 当 山 弘 農業委員会事 知 花 誠 輝 事務局長 建 設 課 長 上 地 正 夫 水 道 課 長 棚 原 栄 福 読谷飛行場 大 湾 近 常 転用対策課長 消 防 長 上 地 勇 徳 診 療 所 長 松 嶋 顕 介 診 療 所 事務長 上 地 正 一 教育委員会 町 田 宗 信 総務課長 社会教育 課 長 知 花 正 典 指 導 主 事 喜友名 行 雄 歴史民俗 資料館長 名嘉真 宜 勝 美 術 館 長 宮 城 元 信 中央公民館長 仲 真 朝 健
県内最大規模を誇る長浜ダム(農業用ダム)の「定礎式」が十一月十九日午前、長浜ダム建設現場において大田県知事や国、建設会社、読谷村関係者ら約五百人が見守るなか盛大に挙行されました。 定礎式典は神事の後に行われ、大田知事の挨拶や工事の経過報告、来賓挨拶などが述べられた後、『定礎の儀』が厳かに行われ、長浜区の「作田米」を先導に重さ百キロの礎石がダム本体を建設する予定地に運び込まれ、大田知事による「鎮定の儀」を皮切りに、国関係者の「斎槌の儀」、山内徳信村長らによる「埋納の儀」、儀保輝和議会議長らの「クス玉割」などが挙行されました。 午後からは、会場を村総合福祉センターに移し「祝賀会」を開催。祝賀会では山内村長が「農業所得の向上のためにダム建設に取り組んできた。ダムが完成すれば天候に左右される農業でなく、計画栽培、計画出荷が出来るようになる。村農業ひいては県農業の発展に大いに役立つ」とあいさつ。その後は、祝杯、華やかな琉球舞踊が披露されるなどして祝賀会を盛り上げ、長浜ダムの「定礎式」を祝いました。 長浜ダムの建設 読谷村内における農業の土地利用はサトウキビを主体とした畑作。だが、作物生育期における雨量分布が不均衡に加え、土壌条件も保水力に乏しい島尻マージである。この事から毎年のように干害に見舞われ生産性を不安定にしてきた。このため県営潅呀漑排水事業を導入。用水の確保を図り、畑地潅漑の展開を目指す目的を以て長浜川にダムを築造することになった。 長浜ダム ▼県営かんがい排水事業(一九七九年に全体実施設計を始め、八二年に着工。九五年完成予定 。) ▼総事業費は約七十億円 ▼総貯水量百六十万トン(村内の農地二百ヘクタール、受益戸数千二百三十六戸を対象に農業 用水を供給) ▼ダムの型式(中心遮水ゾーン型フィルダムと呼ばれる。堤防高四八・三メートル、長さ一九六・一 メートル)
「老人保健福祉計画」の策定とその実践を義務付けた福祉八法の改正で社会福祉の在り方が変わり、平成五年四月からは市町村レベルの老人保健福祉計画の設置が義務化されることが決まりました。 沖縄県では、その計画書の策定に向けモデル地域として浦添市、南風原町、そして、読谷村の三市町村を指定。このモデル指定を受け、本村としては今回「地域福祉計画」の計画書策定に向け、その目的および方法についての学習会を十月二十一日、村総合福祉センターにて開催しました。 会場には役場関係者や社協役職員をはじめ、民生委員協議会、老人クラブ役員、議会文教委員ら約八十人が参加。二十一世紀の本格的な高齢化社会の到来を目前に控え、高齢者の保健福祉の推進を図るための在宅福祉サービスと施設福祉サービスの体制づくりについて山内徳信村長は「地域福祉の担い手は、それぞれの自治体や社協を含めた民間団体、ボランティアということになる。地域福祉計画策定のため、一生懸命に学習しましょう」とあいさつ。その後、日本社会事業大学教授の大橋謙策氏が講演。大橋救援は「これからの総合福祉は市町村ごとに見合った老人福祉、社会福祉を考える時期にきている。他力本願でなく新しい社会福祉のあり方を皆で考えていく『地域福祉の時代だ』。市町村がやる気にならないと自治体ごとの格差がでてくるのも止むを得ない。自信を持って積極的に地域福祉を」と強調。また、福祉計画の必要性や計画策定の手続きなどについて説明し、「行政だけでなく、村民一人ひとりが真剣に考え、協力していくことが重要である」と指摘した。
十月十五日は「白い杖の日」。 この日にちなみ、読谷小学校の五年生約八十人は目の不自由な人たちの苦しみを少しでも理解しようと、十二日(土曜日)の午後、村総合福祉センターでアイマスクをかけての体験歩行や盲人卓球を経験した。 これは、読谷村身体障害者協会が「白い杖の日」にちなんで毎年、啓蒙の意味から実施しているもので今年で四回目を迎えます。体験を前にして知花裕和身障協視覚部長は「障害者を正しく理解し、深い感心を持ってほしい。視覚障害者は、目が不自由なだけで、目以外の機能はみなさんと同じ。困るのは、違法駐車や歩道に自転車や物が置いてある場合だ。これを機会に歩道の障害物を見たら片付けてほしいし、そのことを知り合いに訴えてくれたらとても嬉しいです」と、児童生徒らに視覚障害者への理解と協力を呼び掛けました。 そして、仲宗根憲栄民生部長と又吉助好読谷小学校校長からの挨拶の後、児童らは二手に分かれ、視覚障害者十二人の協力、指導を受けながら、歩行と卓球を体験しました。アイマスクを着けての体験歩行では、二人一組になって友達同志で支え合うものの、目を覆って、杖を頼りに歩行することは初めての経験。それだけに児童生徒は「こわいよ一」、「だいじょうぶ、何もないよ」と、声をかけあいながらも不安な表情で福祉センター周辺を恐る恐る歩行していました。 また、同様にして卓球では音のでる黄色のピンポン球に全神経を集中。双方がゲームを展開するも、思うようにラケットに当てることが出来ず、空振りばかりが目立ち、生徒らは真剣な表情になって球を追い、盲人卓球の難しさを体験しました。 "目の大切さ"を身を以て体験した児童生徒らは「目の前に何があるのかわからず、とても怖かった。これからは道で目の不自由な人に出会った時は声を掛けていきたい」と話し、感想を述べた。 尊い体験を通して児童生徒らは今まで以上に、視覚障害者に対する理解と思いやりの心を小さな胸に深く刻みこんだことでしょう。 道路はみんなのもの、一人々が視覚障害者の身になって考え、路上への車や自転車などの危険駐車、障害物などを置かないように心がけたいものです。 みんなが安心して路上を歩けるように!
今春の三月、読谷小学校に待望の「水泳プール」がいよいよ誕生する。村では、村内小、中学校の全校にプール建設を計画してまいりましたが、この程、読谷小学校へのプール建設を着工。その起工式を十一月二十一日午後、関係者の参列する中、同校のプール建設予定地において行いました。 起工式は、伊波住職による工事の安全祈願の神事の後をうけて、岳原宜正教育長、知花勝治代表(勝建設)、照屋林成代表取締役(テルヤ設計事務所)、新垣正次代表取締役(イラミナ電設)、比嘉良政代表(良政産業)の五氏によって"鍬入れ式"を挙行。その後、業者を代表して新垣氏が「工期内竣工を目指し、業者の総力を挙げて頑張る」と語り、岳原教育長は「待ちに待った読小のプールの起工式が行われることは喜びに絶えない。安全対策、管理を十分にし、期間内竣工で素晴らしいプールを建設して頂きたい」とあいさつ。また、又吉助好読谷小学校校長も「いよいよだと感激している。全児童生徒が泳げる子に育てていきたい」と抱負を述べていました。 早期竣工を目指した「読谷小学校プール」建設の土音が、やがて校内に心地よく響くことになる。 水泳プールは、管理棟の部分は二階建てで校舎と接続。附属施設に監視室や更衣室、機械室、シャワー室に倉庫などを備え、一階部分は倉庫群( 6室 )からなる。プール部分は本プールとひょうたん形の低学年用プールを配し、モダン的なデザイン化を施している。プールの水面積は合計四〇〇㎡。 読谷小学校水泳プール ▼施設の概要 構 造:PRPプール 水面積:本プール三二五㎡ (13m×25m)6コース低学年用プール七五㎡ ▼総事業費:約九千九百万円 ▼工事期間 平成三年十一月十六日~平成四年三月三十日
物を大切にする心を育み、社会福祉への奉仕活動をしよう-と、読谷高校JRC部(仲村渠潤部長)では同校で九月二十八・九日に催される"学園祭"で「福祉バザー」を行うことを企画した。 この企画は、生徒らが自主的に発案。計画・運営の全てにおいてJRC部で担当しようというもので、バザーの販売品にはリサイクル用品を当て、生徒、父母、教師などから不要品を募集して販売することを決めたもの。 この趣旨には多くの方々が賛同し、同部には小物や古着、引出物の食器類、雑誌やアクセサリー等のたくさんの品々が寄せられた。 部員は、集まった品物にそれぞれ値段を設定し、学園祭でのバザーを実施して販売を行った。 福祉バザーは好評で、安値の小物は三十円から百円、高値で五百円とあって訪れた生徒や観客が買い求め、リサイクル用品は飛ぶように売れ、三万円余の収益をあげました。 十月二日午後、JRC部の生徒たち七人は顧問の喜友名紀子教諭と共に村社会福祉協議会を訪ね、玉城則枝さんが代表して「社会の恵まれない人達のために役立てて下さい」と、バザーでの収益金三万二千四百七十円とリサイクル用品六十点余を託しました。 このような読谷高校JRC部の福祉への理解と善意について、社協の上地武昭事務局長は「福祉の一環として学園祭でのリサイクルバザーに取り組んでもらい感謝しています。村内の福祉向上のために大事に使わせて頂きます」と応え、感謝の気持ちを述べました。 高校生の生徒自らが、積極的に福祉に、リサイクルにと深い関心を寄せ、善意を育んでいる温かな心には感心させられるものです。村民みんなで大きな拍手を送りましょう。 ありがとう読谷高校の皆さん。 ありがとうJRC部の皆さん。 読谷高校JRC部 ▼読谷高校の一年生から三年生の部員三十人が加入している。 活動は「ボランティア活動」を主としている部である。
むかし、あるところに、正直者のおじいさんとおばあさんがおりました。 それは貧乏でしたが、ふたり仲良く暮らしていました。 大晦日になって、明日はお正月を迎えるというのに、年越しをするごちそうどころか、お米を買うお金もありませんでした。 「もう私たちは、何も食べる物がないので、火を焚いて、あたたかい火をぬくんでお正月をすませようね、おばあさん」 と地炉を囲んではなしをしていました。 外は冷たい風が吹いていましたが、そのうち家の中はほんわりとして、ごちそうを食べたような気分になりました。 そのとき、表でトントン戸をたたく音がしました。 「今ごろだれだろう」 と、開けてみると白い髪の老人が立っていました。 「今晩一晩だけでも泊めて下さいませんか」 「きょうは大晦日であるけれども実は、私たちには敷物もなく、夕飯も準備できないほどの貧乏で、このようにふたりで火を焚いているんですよ」 と言っても 「寝るところさえあればいいので泊めて下さい」 と願うものですから 「それではどうぞお入り下さい」 旅の老人はあかあかと燃えている地炉のそばに座りました。 「旅のお方よ。火にあたって年を越して下さい。私たちには一粒のお米もなく、隣へお米をちょっと借りに行ったのですが、断わられてしまいました」 とおじいさんは言いました。 旅の老人はここへ来る前に、隣のお金持ちの家へ立ち寄ったのですが、「おまえみたいなこじきを泊めることはできない」と追い払われたばかりでした。 三人で地炉を囲んでいると、旅の老人は 「ねえ、おまえたち、台所から鍋を取ってきて、そこの火にかけなさい。そしてその鍋に水を入れなさい」 と言いました。 そして、ふところから紙に包んだ粉のような物を入れると、ふしぎなことに、鍋いっぱいの白いご飯ができました。 「さあさあ、このごはんを移して、鍋にもう一度水を入れて急いで火にかけなさい」 今度も何やら入れたようです。すると、鍋の中で肉がグツグツ煮えています。 目を丸くしてながめているおじいさんとおばあさんに、老人は「どれどれ、みんなでこれを食べて年越しをやろうではないか」と三人で楽しく大晦日を過ごしました。 そして、新しい年が明けた翌朝、「昨夜はありがとう。あなたたちのおかげで気持ちよい朝を迎えることができた。私はこれから旅に出るけど、何か望みがあるのなら何でもいいから一つ言って下さい」 二人は昨夜のごちそうだけでもありがたいと思って遠慮していると、老人はなおも聞いたので 「私たちはお金が欲しいなんて言いません。ただなれるものであれば若い頃にかえって、もっと働いて、今からでも家を盛り上げて繁盛してみたいなあと思っています」 「あゝそうですか。それでは大鍋に湯を沸かしなさい」 と言って、また鍋の中へ何かを入れました。 「これは若水と言っているが、これで浴びなさい」 言われたとおりにやると、しわだらけのおじいさんとおばあさんは、みるみるうちに十七、八の若者になりました。お互い顔を見合わせて「ほんとうにめずらしいことだ」と、びっくりするやら喜ぶやら。 旅の老人は 「あなたたちは望みどおり若くなっているので、いっしょうけんめい働いて裕福になりなさいよ」 そう言って出て行きました。 二人はうれしくてたまりません。さっそく隣近所に年始回りへ行きました。よくばりの金持ちの家へ行くと、 「どうした!おまえたちは、こんなに若くなって」 「実は昨夜、旅の人がいらっしゃって、泊めてあげると、お礼にと言われてお湯で浴びることを教えて下さった。そのようにすると、私たち夫婦は元の若い姿になっているんだよ」 「それでその人はどこへ行ったのか」 「まだそのあたりだろう」 よくばりじいさんはこれを聞いて、急いで後を追いました。 やっと追いつくと、むりやり連れてきて 「私たちはお金はたくさんありますが、年をとりすぎているので、あそこの夫婦のように若くしてくれ」 と頼みました。 「それでは湯を沸かして交代で全員浴びなさい」 と言いました。 さっそく言われたとおりにすると、主人は犬に、その妻はさるに下男たちは豚や猫になって、キィー、キィー、ブーブー、ミャン、ミャンと鳴きながらそれぞれ山の方へ逃げて行きました。 旅の老人は再び貧乏人のところへやってきて、 「あの家の人たちは、皆動物になって家を守ることができない。財産を管理することができないからもう天のお授けだからあの家におまえたちが住むとよい」 と言って去りました。 こうして正直者の夫婦は、大きな家で何不自由なく暮らしていました。 しばらくすると、さるになった金持ちの女主人は、毎日同じ時間に山から下りてきて 「私たちの財産を横取りして、ここは私の家だよ。出て行け、出て行け」 と庭の石に座って、キィーキィー鳴いていました。 それで、その夫婦は困ってしまって、旅の老人が現われないかなと思っているところへ、ある日、ひょっこりやってきました。 話を聞いた老人は 「動物になってまでもこの人間社会に未練を残してここへくるなんて許せないな。この庭の石を全部焼いておきなさい」 と教えてくれました。 二人はいわれたように石を焼きました。いつものようにさるはやってきて、石の上に座りました。「アッチッチー」 お尻を真っ赤に焼いたさるは、あわてて逃げて行き、それきりここへくることもありませんでした。 旅の老人はほんとうは神様だったのですね。
喜名小学校の校門を入って、すぐの突き当りにこの写真で見るような「読谷村教育発祥の地」という石碑があります。 読谷山には琉球王朝時代から村学校というものがあったということですので、ここでいう「教育発祥」は厳密に言うと「近代学校教育発祥」ということになるでしょう。 日本では明治五年(一八七一)発布された学制によって近代学校教育制度が打ち出され、義務教育制がうたわれます。そして明治十三年(一八七九)、沖縄の廃藩置県にともなって学制が沖縄にも及び、翌十四年には伊江島を含めた本島各地に十四の小学校が創設されました。(学制は明治十三年廃止され、代わって教育令が出されます) 読谷山では明治十五年三月二十七日に読谷山小学校が創設されました。 この学校創設は教育令を受けた県からの強い指示によるもので、間切番所(村役場)は大変な苦労を強いられたようです。 教室がないので番所(役場)の一室を片付け、そこに机を入れて教室にしました。 教室は準備したものの生徒はいない。当時学齢児童が一五六二名いたようですが、いろいろな思惑から入学希望者はいません。 仕方なく各村(字)に割り当てしてやっと三十名の児童を確保したということです。就学率が一・九二%です。 ですから就学した児童 -とはいっても八歳から十六、七歳位までの人たちだったようですが-に対しては年に麦を二俵か三俵与えて奨励したようです。 初めての普通教育ですから、沖縄の人には教師適格者がおりません。ですから鹿児島県出身の吉村 嘉平治訓導を唯一の先生として指導を始めたのでした。 ところが生徒は標準語が分からず、先生は沖縄方言を知らないものですから授業は全くチンプンカンプンだったようです。それで喜瀬という人を雇い入れて通訳とし、それで授業を進めたと言われます。 翌明治十六年(一八八二)になって、番所敷地以外に学校敷地を求めて二教室を新築しました。その時の学校敷地が現在の喜名小学校敷地に当るのです。それでここには「読谷村教育発祥の地」という石碑が建てられているのです。 読谷山小学校は明治四十四年(一九一一)に敷地を村の中央部座喜味に移り、喜名は分教場となりました。昭和十六年(一九四一)には読谷山国民学校と名を変えましたが、昭和十九年(一九四四)日本軍の飛行場建設にともない、また喜名の敷地に戻り、そこで戦火にあい学校施設はすべて消滅しました。 戦後喜名地区は立ち入りが遅れたため、読谷初等学校は現読谷中学校の所で再開され、読谷(山)小学校の名は喜名から別の場所に移ってしまいました。