
【見出し】ちょぴり緊張入学式 【写真:1:お兄さんお姉さんの大きな拍手に迎えられて入学式会場へ】
私たち、ピカピカの一年生。 お父さん お母さんが今日まで大 きく育ててくれました。 新しいお洋服 新しいランドセル 新しいお友達 そして 新しい教室に やさしい先生。 一生懸命ガンバリます!
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NHK大河ドラマ『琉球の風』のメインロケ地の一つに本村の西海岸(儀間浜、高志保浜)が決定した。 その、合同記者会見が二月二十五日午後、村議会議員控室にて行われ、会見には山内徳信村長を始め、NHK大河ドラマ推進本部・樋田堯人本部長や沖縄うみの園・長嶺義仁社長、地元関係者が列席する中。マスコミ等を前にロケ地決定の発表が行われました。 来年放送予定の『琉球の風』は十七世紀前半の激動の琉球王朝を時代背景とした物語。本村の"読谷まつり"にも登場する進貢船の実物大(長さ四十四㍍、二五〇㌧)が建造され、実際に進貢船を海に浮かべてロケが行われるという。 会見の席上、山内村長は「読谷村の西海岸が最適地としてロケ地決定されたことを喜び、歓迎します。読谷村は役場内に推進連絡会議を設置し、更にこれから読谷村の全ての村民(団体、個人)を網羅した実行委員会を設置して『琉球の風』の制作に全面的に協力していきます」と発表。また、樋田本部町は、ロケのスケジュールについて「首里城を中心として沖縄県全体がロケ地になるが、読谷をメインにオープンセットを設置することで決定させて頂いた。撮影は九月から中国側より始め、読谷は十月頃になる。主演俳優などは三月に決め、四月には沖縄でオーディションを開き地元からの出演者も募集したい。進貢船は現在、中国の福建省で建造中であり、八月に完成、九月には読谷の浜に浮かべることが出来るでしょう。来年の一月に放映を始めます」と述べられました。 なお、進貢船の建造は「沖縄うみの園」が福建省船舶工業公司に既に発注されているとのこと。 NHK大河ドラマ『琉球の風』のロケ地として読谷村が決定。いよいよ撮影が開始され、そのドラマの放映によって、本村が一躍、全国にクローズアップされる日も近い。村民一丸となって制作に協力し、バックアップしてまいりましょう。 読谷村の歓迎する理由 記者会見の発表要旨 (1)おもろそうしによると、一三七二年泰期が中国(明)の福建省へ行ったのは、この読谷の地から であった。即ち読谷が歴史的にみて明との交流の玄関口の一つであり進貢船の発着の地で あった。 (2)読谷まつりの大きな目玉である「創作進貢船」と「琉球の風」の進貢船の主旨が同じ視点にあ ること。 (3)思うに「琉球の風」の放映意義は、沖縄の歴史の真の姿、アイデンティティー(主体性)を全国 民に知らすだけでなく、沖縄の観光、文化、平和運動にも大きく寄与するものである。更に沖 縄の青少年や青年達に大きな自信と勇気を与えることになると共に、地域活性化や村づくりに 大きく貢献するものである。又、撮影後の跡地の有効利用やアジアの人々との交流の拠点形 成にも役立つものと考えている。 (5)現在、読谷村内で民間企業(沖縄うみの園)が進めているリゾート敷地内に久米村再現可能な 敷地があり、それの活用が極めて有効である。リゾート敷地に東南アジア文化交流センター建 設構想とも一致するものである。
二十五日の記者会見をうけて、村では三月九日午後四時、村総合福祉センターにおいて村内十五団体を網羅した読谷村推進実行委員会の結成大会を挙行。役員をはじめ、規約、組織団体を満場一致で承認し『NHK大河ドラマ「琉球の風」読谷村推進実行委員会』を設立致しました。 大会では、設立までの経過報告・趣旨説明が行われた後、スムーズに議事は進行。初の大河ドラマのロケ製作への協力、成功に向け本格的に発進した。
年間を通して優れた芸術活動や芸術文化の向上に業績のあった個人、団体を顕彰する「第二十六回沖縄タイムス芸術選賞」で、本村の渡慶次区在、安田慶善氏(68歳)が古典音楽部門・三味線で誉れ高い"大賞"を受賞なされました。 この大賞の受賞は、村民への励みになると同時に、芸術・文化活動に関わる後輩らの大きな目標となるものでしょう。 村民みんなが大きな拍手で称えたいと思います。 安田氏は終戦直後、避難生活をしていた石川市で三味線を始めました。氏が二十二歳という若さの時である。以来、四十六年余にもおよび、一途なまでに三味線を愛し続け、昭和三十四年・野村流古典音楽教師免許を授与され「古典音楽安田研究所」を開設する一方で、昭和四十六年には師範免許を享受。 数々の芸能祭や独唱発表全等に出演。また、沖縄を代表しての芸能団海外公演(ブラジル、アメリカやハワイ、台北など)や県外の関東、関西支部公演にも参加。野村流古典音楽保存会の副会長、中部支部長、タイムス芸術選賞選考委員などを歴任して活躍する傍ら、後輩の育成に情熱を傾注。現在、最高齢者八十歳の弟子まで六十人余が師事。多くの弟子にも賞の獲得者を始め、師範二名、教師七名を輩出しています。 今回の受賞に安田氏は、「賞のことなど気にもとめなかった。賞を頂いたことで村民や弟子達が自分をあやかることになれば嬉しい事です。賞を貰っても後輩を育成することが出来なければ何の値打ちもない。私は、弟子に教えるにしても自分の体験を生かし古典音楽の難しさ、奥の深さを説いています。自分もまだまだ未熟、一つびとつ勉強しながら難しさを克服する喜びが今の自分をつくっている」と述べ、また、苦しかったこと楽しかったことについては「人、一人一様、弟子が覚えきれない時は辛く、弟子から"チャーヌラーリーッ"何度も辞めようかと思った。しかし、弟子が覚えてくれた時の喜びは何にも言いがたく、弟子一人々にあった教授を心掛けている」と古典音楽の奥の深さ、魅力を謙虚に語り、更に「家族の支えがなければ今の自分はなかったでしょう」と、理解ある家族と内助の功に感謝の気持ちを忘れませんでした。 また、大賞に輝いた安田氏を弟子たちは「師匠はたまには厳しい。だが、音楽を非常に細かく分析して説き、弟子に解りやすく納得いくまで教えてくれる。ほがらかで恐さがなく、何事にも笑って受け流してくれる。師匠の受賞は、弟子にとって大きな励みになります」と喜び、安田氏の人柄と受賞を称え、そして、妻のトヨさんは「よく頑張ったと思います。主人は音楽のことになると何をさしおいても飛び出して行きました。そんな主人にワジワジーする時もありましたが、本当にご苦労さんと言ってあげたい」と応え、深い理解を示しました。 安田氏の心情は『音楽は家族も一緒』という考え方のもと、発表会「ファミリーの集い」を開催するなどして門下生の全家族を含めた交流も行っているという。それは、古典音楽で結ばれた固い家族の絆と言ってもよいでしょう。 安田ご夫妻のそもそもの馴れ初めは妻のトヨさんも琴を習い、音楽が取り持つ緑で結婚したという。以来、喜怒哀楽を共にし、音楽の道一筋の人生を仲睦まじく歩んでこられた。夫婦間には一男四女。現在、夫婦と長男の三人家族。 安田氏のプロフィル 輝かしい芸歴を持つ氏のスケジュウールは毎日が多忙である。午後二時から夜十時過ぎまで弟子たちが練場(安田研究所)を訪れ、古典音楽を享受している。 ※表。
本村の特産物を内外にアピールし、地域活性化を図ろうと「ユンタンザむらおこし物産展」(読谷村商工会主催)が三月十四・十五の両日に残波岬いこいの広場にて開催されました。 むら興し事業の一環として取り組まれている同物産展も今年で第五回目を迎え、回を重ねるにつれて内容もますます充実・発展し、今やしっかりと地域に定着。今年は天候にも恵まれ、村内外からの大勢の観客で賑わいました。 初日のオープンセレモニーに続き--紅いもの里づくりをめざしてをテーマとして「ほくほく討論会」が催され、仲宗根盛敏氏(琉球イモ生産部会会長)、比嘉清光氏(読谷農協指導販売部長)、大城勝哲氏(商工会会長)、玉城悟氏(役場経済振興課)の四氏がパネラーとして討論。"紅いも"の可能性と問題点・課題等が提起されました。 また、広場には出店テナントが設置され、本村の特産品である紅いも、読谷山花織、ヤチムンなどを一堂に集め展示・即売が行なわれ、村内外からの大勢の家族連れなどの人出で賑わい、焼き芋や紅いも、ヤチムンなどを買い求める人々で盛況を極め、ステージでは、観客が紅いも絶叫大会やカラオケ大会、ちびっ子らを対象とした残波ウルトラクイズに挑戦し豪華賞品を獲得して嬉しそう。また、ミュージックコンサートにロックコンサート、民謡ショーは観衆を楽しませ、大宜味小太郎一座の演ずる沖縄芝居「ハワイ行進曲」は、広場をうめつくした大観衆を笑いの渦に巻き込んでいました。 商工会では、初の試みとして「村内観光巡り」を企画。村外からの物産展ツアーを募集してピーアールを図るためにバスをチャーターして那覇から運行させた。この企画は予想以上に好評を博し、六十人の募集予定が八十人余のツアー応募が殺到。商工会では地元出身のバスガイドOBを添乗させて村内観光巡り、物産紹介を行う一方で、お土産に本村の特産品をプレゼント。ツアー客からは「格安な料金で観光に物産展見学、お土産まで、素晴らしい物産展だ」と称賛。大きな評価を受けていました。
今、我が沖縄・読谷から、かの大交易時代の琉球の繁栄を築いた青年達の志にあやかって、ユンタンザの若者達「残波大獅子太鼓(新垣武常主宰)」が世界へ羽撃いた。 ユンタンザの若者が世界の政治・経済の中心地であるニューヨーク公演に旅立ったのである。 残波大獅子太鼓は、一九八五年の第十一回読谷まつりの創作「進貢船」を契機に初登場。読谷の地で誕生し、以来今日まで驚異的なまでに広がり、県内はもとより全国各地で公演。そのダイナミックな演奏は、人々に共感を呼び感動を与え続けている。 世界に向けてたたく大獅子太鼓の響き、その感動を想像するだけでも胸の高鳴りを覚え、読谷の青年らが努力し、ここまで成長してきた姿を見ると誠に素晴らしく、喜ばしいことである。 産声をあげて六年。日本を代表するまでに成長した太鼓集団「残波大獅子太鼓」のニューヨーク公演は、沖縄の新しい文化活動の発展の姿であり、文化の島沖縄、文化村読谷を担って立つ、将来に向けての人づくりの一環ともなり、それは、沖縄の多くの若者達に大きな夢と希望を与えることでしょう。 長浜で壮行激励会 ニューヨーク公演を成功させる為の支援呼びかけ人会(会長・山内徳信村長)及び長浜区では、四月十四日夕、長浜公民館において「残波大獅子太鼓N・Y公演壮行激励会」を開催。壮行会には多くの区民をはじめ、山内村長、伊波栄徳県議、新垣昇村議、知花亀次郎教育委員らが訪れ激励しました。激励あいさつの中で山内村長は「十四世紀頃の青年・宇座のタチムイ泰期がこの長浜港から進貢船で中国との貿易を行なった。その歴史的に由緒ある長浜の地から時代を遥かに超えて今、世界のニューヨークに残波大獅子が飛び立つことに意義がある。針の先ほどのウチナーからアメリカに行って太鼓を叩くということは昔では考えられなかったこと、ユンタンザ、沖縄、日本の太鼓の文化をアメリカ国民との文化交流を通して発表し頑張ってほしい」と激励。また、出身地の長浜区からの暖かい壮行に残波大獅子の新垣主宰は「長浜の自然、風土、水、風を一杯に吸ってきた。ワッター島、生まれ島・長浜を常に誇りに思い大事にする心で残波大獅子も育ててきた。世界の人々が平和を語り合う場の国連本部で技を披露出来ることは光栄である。一生懸命に頑張ってまいります」と語りました。 今、ユンタンザの若獅子達が羽撃いた。ニューヨーク公演の成功を村民で激励し、大きな声援を送りましょう。 若獅子たちは四月十八日にニューヨーク公演に旅立った。 ニューヨーク公演に支援金 残波大獅子のニューヨーク公演にあたり「ニューヨーク公演を成功させる為の支援呼びかけ人会(代表・山内徳信村長)」に、激励の寄付金が寄せられました。 ▼三月十二日 沖縄うみの園 (長嶺義仁社長) 金 五十万円 ※写真 ▼三月十九日 (名嘉清次社長) ●ミサワセラミックホーム 金 十万円 ●(株)サザンプレス 金 五万円 ※写真 ▼三月二十一日 ●沖縄電力株式会社 (當山宗仁室長) 金 十万円 ※写真 ▼四月十日 ●オータ沖縄支社 (大久哲二社長) 金 百万円 ※写真
しょうぶ(さといも科)花の茎は高さ25~40㎝で地中に太い根茎がある。花のほは約5㎝で、小さな花がたくさんついている。 旧歴五月五日には、あまがしを作って、菖蒲の葉といっしょにお供えしますが、それはどうしてでしょう。 むかし、ある男の人がある女と結婚して仲むつまじく暮らしていたそうです。 そこで、隣の青年二人が、おもしろ半分に、 「あそこの家に若夫婦がいるというが、からかってこようか」 と相談して、こっそり戸の節穴からのぞいてみました。 二人はびっくり。美しい若妻とばかり思っていたのに、その思いは裏切られ、なんと、きばをむきだした鬼が、男の人といっしょにいるではありませんか。 青年二人は、顔を青ざめ急いで逃げているところを、坊主によびとめられました。 「おい!おい!そんなにあわてて何があったというのだ」 相手が坊主だと分かると、すこしは落ちついて、 「たいへんだ!たいへんだ!あそこの家に鬼がいるよ」 と言って、走り去りました。 「ふむ、鬼だと!ちょっと見てこようか」と、坊主も若夫婦の家まで行ってのぞいてみました。まちがいなく家の中に鬼がいました。 「これはこれはまたなんということだ。早く男を助けないと命が危ない」と、坊主は考えました。 ところで、この男には、以前に親しくしていた二人の女友だちがいましたが、この鬼が二人を殺し、若い女に化けてその男と結婚していたのでした。 一方、坊主は、「このままではいけない。まずその男にほんとうのことを伝えるべきだ」と、さっそく呼んで言いました。でも、妻がよっぽどかわいかったのか、信用しませんでした。その鬼もまただれかに夫を横取りされることを恐れて、外出することをいやがりました。 それから、坊主はここの部落の青年たちを集めて、男を助ける相談をしました。部落の青年たちは男を連れ出すために常会をもつことにしました。 「きょうは常会がありますので、午後七時に青年の皆さんは集まって下さい」 と、鉦や太鼓を打って知らせました。 常会の知らせの鉦を聞いた男は 「私も青年なので、常会へ行って来ようね」 と妻に言うと、 「行かないで、行かなくてもいいでしょう」 「それでも、常会へ出ないとつまはじきにされるし行ってくるよ」 と言って、出かけました。 待ちかまえたように、坊主は男をつかまえると、 「あなたの妻は鬼だよ。人間ではなく鬼なんだよ、嘘と思うのなら自分の目で確めてごらん」 と言いました。 もうしっこく言われるものだから、男はまず様子をみてみようと思いました。 そして、ある日、畑へ行ったふりをして、天井にのぼって下の様子をうかがっていました。 すると、薪を燃やし、大きな鍋でお粥のようなものを作っていました。長い黒髪がボサボサの髪に変わり、頭に大きな口ができました。髪をかきわけ、かきわけ柄杓でお粥をすくうと、頭の口から食べているのです。あぐらをかいてすわり、きばをだし、目はギョロギョロ、長くのびた手に柄杓を持って、頭の口からお粥を食べているありさまは、みんなの言うとおり、まぎれもなく鬼の姿でした。いつもの美しい妻の面影はみじんもありませんでした。 「こりや、まったくそのとおりだ」 驚いた男は、その場から逃げようとしました。しかし、物音に気づいた鬼は、「絶対逃がさんぞ」といわんばかりに、どんどん追って行きました。 男は力のある限り、野原をかけ、林の中をつきぬけ、菖蒲がおい茂っている畑の中まで来ました。 すると、鬼に殺された女友だち二人が菖蒲畑の中から現れて、手を広げ、男をかくまり、追いついてきた鬼をよせつけません。 包丁をふりまわしている鬼に、またそのあとから追ってきた坊主や青年たちが、菖蒲の葉を手に手に持ってむかいました。 鬼はもう、坊主に菖蒲の葉をむけられたので、 「ばれた以上、私はもう望みがない」 と断念し、自分の持っている包丁をたてて死んでしまいました。 菖蒲のおかげで男の命は救われました。 死んでも男を守ってくれた女友だち、二人、そして、坊主や青年たちへのお礼として、あまがしを作り、菖蒲といっしょにお供えをして、男の節句をするようになりました。 菖蒲の葉で帯をしめ、「腹がんじゅ一しんそ一り」と、また鉢巻をして、「頭がんじゅーしんそ一り」という意味をこめて五月五日に祭りをしました。 昌蒲ぬ葉ぬたみに 命救いあぎてぃ いちゃし 菖蒲ぬ葉に恩義さびが 五月五日なりば 菖蒲ぬ葉ぁ飾てぃ あまがしゆ作てぃ 祭りさびら しょうぶ〔白菖,菖蒲〕日本全土の川岸や池沼に見られる大形のサトイモ科の多年生草本で,葉はハナショウブやアヤメの類に似ている、根茎は泥中に長く横たわり,多節,多肉,白色ないし淡紅色で地上部とともに特別の臭気がある。葉は根茎の先端に群出し,長剣形,濃緑色で長さ50~80cm,幅6~15mm,先端がとがり,基部が跨(こ)状に重なり合うことはアヤメに似ている。 肉穂は太く,長さ5cmくらい,密に多数の黄花を着生する。五月節供に使うのでよく知られている。【端午の節供とショウブ】ショウブは邪気を払ったり,疫病を除いたり、あるいはヘビや虫の毒を避けるのに効果があるとされ,古くから端午の節供に用いられた。端午とショウブの深いつながりは,端午の節供を一名菖蒲(あやめ)の節供と呼んでいることからもうかがえよう。こんにちでは端午の節供にわずかに,屋根の軒にヨモギをまじえてさす菖蒲葺(あやめぶき)と菖蒲(あやめ,しょうぶ)湯の習俗しか残っていない。
この石碑は木の橋であった比謝橋を、石の橋にしたことを記録したものです。しかし今では摩滅がひどく、判読できないほどです。それで『琉球国碑文記』という本を元に、碑文のあらましを書いてみましょう。 まず始めは比謝橋のある場所とその近くの景色等について書かれています。 「それ比謝村は王城の北にあり。村の南に甘井崎の茂林松樹あり。その下に一井泉ありて甘し。往返の人民まかせてこれを飲む。ゆえにこれに名付けて甘井(アマカー)という。北に諸山ありて林壑(林の奥深い所)もっとも美なり。これを望むに巍然(高くそびえ立つ様子)たるは読谷山古城なり。半ば流霞(たなびくかすみ)のごとく半ばけむりのごとし。東西に一江清水あり。この水連山より出でて夙夜(朝夕)止まず。渡口港に至りて海に入る。これに架するに橋をもってす。いわゆる比謝橋なり」 次に、昔から木の板で杠(小橋)を架けてあったが、いつ、頃から架けられていたか分からないとしながらも、ただ一六六七年と一六八九年にわずかな修理をしたとなっています。 ところが数年もしない内に、雨風で壊されたり、あるいは木喰い虫にやられたりして、人民はこれを修理するのに大変苦労続きであったということです。その上雨風の日には、滑ったり転んだりして安心して渡れなかったというのです。 それで石橋にする工事を康煕丙中(一七一六)八月二四日に始め、翌年、、一月一五日には落成したというようなことが書かれています。 なおこの架橋工事にたずさわった人数および経費は次のようになっています。 細工 二千七百四十三名 工銀 五貫二百十一銭七分 間切夫 二万七百十八名六分五厘 工銀 二十貫七百十八銭六分五厘 日用夫 工銀 三貫二百五十一銭 現在の金にすると、いくらにあたるでしょうか、想像もつきません。 それにしてもわずか六ヶ月余りで落成させたのですから、機械等もなかった時代としての工事のすばらしい進捗ぶりには驚かされます。 工事の際の奉行は南風原親方守周と兼島親雲上兼満の二人ですが、渡り初めは南風原親方守周親子となっています。 この碑文は、康煕五十六年(一七ー七)の春に松堂親雲上が作文したというのですから石碑もその年に立てられたのでしょう。 もともとこの石碑は、比謝矼から牧原への道路の左側にありました。そこは民家の屋敷裏の盛り上がった所でしたが、今では道路になってしまいました。この石碑も戦災を受けて、うち捨てられていたのが発見され、一時役場に預けられていましたが、昭和三十九年(一九六四)現在地に移設されております。
村社会福祉協議会へ次のとおり善意が寄せられました。大変ありがとうございました。 ◆一般寄付 ●池原昌徳様 (読谷村菊花同好会会長) 金 三万円 ●名城道喜様(残波ロイヤル会会長) 金 一一〇、七八七円 ●独居老人サービス調理ボランティアグループ一同様 金 四万一千円 ◆香典返し 謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます。 ●新垣次郎様 (長浜一四〇六の五) 金 十万円 (故亀様) ●泉川良春様 (大湾四八九) 金 五万円 (故千代様) ●知花真繁様 (長浜一、八三一の二) 金 五万円 (故チヨ様) ●金城盛安様 (大湾五五四) 金 五万円 (故ツル様)
92春の収蔵展『山出真山画伯展』が四月七日午前、村立・美術館にて開催されました。 初日のテープカットには多くの関係者が集いオープンセレモニーを挙行。山内村長は「読谷村の文化村づくりの一躍を担ってきた山田先生の素晴らしい作品を観賞できる特別展を読谷の地で開催出来たことは村民の名誉、大きな喜びである」と挨拶。また、遺族の山田真作氏は「今回、画家・彫刻家である父の作品の展示に対して村当局に感謝、感激しています。読谷の美術を志す若者達に先輩の作品を是非、観賞して頂きたい」と述べました。 同展には、終戦直後の一九四六年から一九五二年頃までに沖縄駐屯の米軍人・軍属へ沖縄紹介のために英字新聞に依頼され、山田画伯が軍向けに描いたという風俗画のパネルや絵画十三点、紅型十二点、彫刻十点、焼き物七点など山田画伯の収蔵する幅広いジャンルの作品が展示されています。 美術館の宮城元信館長は「多くの村民が美術館に足を運んで観賞して頂きたい」と呼び掛けています。 同展は五月三十一日迄の間(午前九時~午後五時)開催されますので、多くの村民の皆様方がご覧下さい。 なお、月曜日・公休日は閉館致します。