【見出し】あけましておめでとうございます 【写真:1】
あけまして おめでとうございます 初春の 爽風に帆を上げ はつらつと 二十一世紀へ向けて 今ぞ漕ぎ出す
検索指定条件
あけまして おめでとうございます 初春の 爽風に帆を上げ はつらつと 二十一世紀へ向けて 今ぞ漕ぎ出す
読谷村長 山内徳信 明けましておめでとうございます。 三万二千読谷村民に、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。皆様方には恙なく新年をお迎えになられたこととお慶び申し上げます。 歳月の経つのは誠に早いもので、あっと言う間に一年が過ぎてしまいました。かえり見て、大変、多忙を極めた一年でありましたが、和衷協力の精神で皆様方のご協力の下に、充実した意義のある年でありました。心から敬意を表し感謝を申し上げる次第であります。 村民の力で「琉球の風」を吹かせました。 特に、村民にとって初体験でありました「琉球の風」の撮影にあたりましては、実行委員会を結成し、事前準備、本番の一千七百人に及ぶエキストラ(十月七日~二十二日)の動員等々、事務局を中心に各団体をはじめ、老若男女多くの村民の深いご理解とご協力により、成功裡に終了することが出来ました。エキストラの皆様方には、暑い日もあり、早朝から長時間、慣れない仕事でありました。又、裏方として受付、輸送、接待等々に尽くされた役場職員の皆様方のご苦労、ご協力に敬意を表します。その御苦労のお陰で読谷村は更に飛躍発展していくのであります。どうぞ、人生の良き思い出の一つとして胸に残していて下さい。そして一月十日からの全国放映を皆様と共に期待するものであります。 "今"村民の力で「読谷の風」を吹かせております。 その後に続きました第十八回よみたんまつり(十一月七、八日)も、各団体はじめ村民の心からなるご協力と再建した進貢船と野外大ステージによって演目も一段と盛り上がり、自治労本部「地域活性化指定本土市町村」の職員も大勢参加をし、十万余の観衆に大きな感動と夢と誇りを与え、盛会・成功裡に二日間の幕を閉じたのであります。 よみたんまつりの意義は極めて大きく、その(一)は、読谷村を愛し、将来の読谷村を担う人づくりが進んでおり、(二)地域の伝統・芸能・文化が発展し、(三)地域の物産振興に寄与し、(四)全体として地域の活性化と平和な村づくりの大きな原動力となっているのであります。 たてつづけに行なわれた大きな仕事でありましたが、立派に首尾よく終了出来ましたのは、担当職員の村を愛する気持ちと、村民への献身的な奉仕とサービス精神の発露と、各団体及び村民の読谷村を愛するお気持ち・連帯感、協調心の賜物だと思います。 その他、沢山の行事がありましたが、村づくりの「主人公は自分自身である」との高い理念に立たれ、ご協力、ご声援を賜りました皆様方に厚く感謝を申し上げます。 全村民の理解と協力の下に読谷飛行場問題解決の方向づけの年にしましょう。 迎えました一九九三年(平成五年)は、沖縄にとりましては、第三次沖縄振興開発計画が具体的に進められる年であります。この第三次振計の中で読谷飛行場の滑走路東側(返還部分)の跡地利用計画の具体化が求められており、その方向づけと、村民センター地区の用地問題の解決方策を進める等、飛行場問題を前進させる重要な年であり、ここに従来にもまして決意を新たにするものであります。 どうぞ全村民が力を合わせ、深いご理解とご協力の下に英知を結集し、戦後処理問題である読谷飛行場問題が解決へ向かいますよう、心からお願いを申し上げる次第であります。 最後に、読谷村民の幸せを願い、あわせて読谷村の益々のご発展を祈念し新年のご挨拶といたします。 村 長 山 内 徳 信 助 役 安 田 慶 造 収 入 役 池 原 恒 徳 教 育 長 岳 原 宜 正 総 務 部 長 松 田 重 信 民 生 部 長 池 原 伝 盛 建設経済部長 新 垣 喜 一 総 務 課 長 与那覇 守 丈 企 画 課 長 新 城 正 雄 税 務 課 長 知 花 正 行 厚 生 課 長 仲宗根 盛 良 環境保健課長 新 城 真 栄 保険年金課長 桃 原 英 夫 住 民 課 長 金 子 ユリ子 経済振興課長 当 山 弘 農 業 委 員 会 松 田 兼 一 事 務 局 長 建 設 課 長 知 花 正 典 水 道 課 長 島 袋 強 読 谷 飛 行 場 大 湾 近 常 転用対策課長 消 防 長 棚 原 栄 福 診 療 所 長 松 嶋 顕 介 診療所事務長 上 地 正 一 教 育 委 員 会 町 田 宗 信 総 務 課 長 社会教育課長 上 地 武 雄 指 導 主 事 比 嘉 佑 邦 歴 史 民 俗 名嘉真 宜 勝 資 料 館 長 美 術 館 長 宮 城 元 信 中央公民館長 仲 真 朝 健
読谷村議会議長 儀保輝和 一九九三年の年頭にあたり読谷村議会を代表して、謹んで新年の御挨拶を申し上げます。 「村民の皆様、あけましておめでとうございます」 一九九二年は、沖縄県の祖国復帰二十周年という節目の年で、首里城の開園や、種々なイベントが催されました。 吾が読谷村は、その記念すべき節目の年に、数々の快挙、成果がありました。 読谷高校の「第六十四回選抜高校野球大会(春の甲子園)」への出場は、全国の高校野球を愛する人達や、高校球児達に、自信と誇りを与えたと思います。一地方の、小さな村の球児達でも、やれば出来るという自信が湧いて来たと思います。 大阪在住の読谷関係者も、大変な喜びようでした。「読谷高校、夢をありがとう」というTシャツを作って応援をしてくれた関係者もおりました。 ソフトボール男子も、三年連続の全国大会出場と、体育面でも素晴らしい活躍が見られましたが、文化面でも読谷高校生の活躍は、俳句でも優秀な成績を残しており、文武両道という如きに頑張っていただきました。又、それに続く、中学校の活躍も見逃せません。 読谷中学校男子ソフトボールと、古堅中学校マーチングバンドが沖縄を代表して頑張ってもらいました。 小さな沖縄の、小さな読谷村から、大陸アメリカのニューヨークで残波大獅子太鼓が公演を打つという、壮大な事もやってのけました。 那覇の、久米村が読谷村へ! 三重城が、高志保海岸へ! 何の事かと思われそうですが、 そうです。NHK大河ドラマ「琉球の風」のスタジオパークの事を言っているのです。 村民の皆様、エキストラとして朝早くから、暑い日も、寒い日もありましたが、大変ご苦労様でした。一九九三年一月十日より放映予定の様ですが、ブラウン管に自分の姿を見つけ出すのに、心が浮き立つのではないでしょうか。 この様に吾が読谷村は、マスコミヘの話題がいっぱいでした。 又、本村懸案の読谷飛行場の跡利用についても、第三次沖縄振興開発計画の、沖縄県より国への提案の中での「読谷飛行場」という、固有名詞の取り扱いの件で、国側と最後まで調整がなされ、「読谷飛行場」という字句は削られたものの、国側に、充分に読谷飛行場の課題や経過を認識してもらう事が出来たと思います。 読谷飛行場の問題は、本村議会の「基地関係調査特別委員会」でも審議を続けて居りますが、村民各位の御協力を得て、パラシュート降下訓練場の撤去を実現させ、二十一世紀への展望のもとに、該地域の有効利用を進めていくべく、村民の皆様の増々の御協力、御指導をお願い致します。 一九九二年は、この様に本村だけでも目まぐるしく動きました。 一九九三年は、村民と共に、沖縄振興開発計画の初年度として、読谷の抱える諸問題解決と、二十一世紀に向けての、読谷村発展の為の施策を行政と共に進めて参りたいと思います。 村民の皆様の叱喧激励を、私ども議会にも、お寄せ戴きます様お願いを申し上げ、年頭の挨拶と致します。 謹 賀 新 年 読谷村議会 議 長 儀 保 輝 和 副 議 長 知 花 治 雄 議 員 比 嘉 光 義 〃 盛 島 秀 貞 〃 比 嘉 蕃 信 〃 島 袋 勝 盛 〃 仲宗根 盛 敏 〃 佐久間 盛 夫 〃 比 嘉 秀 哲 〃 知 花 勝 〃 山 城 正 輝 〃 松 田 政 弘 〃 比 嘉 光 雄 〃 屋 良 政 信 〃 与那覇 真 一 〃 当 山 真 市 〃 新 垣 昇 〃 松 田 光 政 〃 池 原 傅 雄 〃 当 山 弘 〃 伊 波 盛 永 〃 山 内 昌 治 事 務 局 長 屋 宜 光 正
あけましておめでとうございます。謹んで新年のごあいさつを申し上げます。 "あら玉ぬ年に 炭と昆布かざて 心から姿 若くなゆさ" 平成五年の輝かしい新春を迎えられ、村民の皆様には身も心も清新に充ち、明るく希望に燃えて居られることとお慶び申し上げます。今年も三万有余の村民の皆様にとって、健やかで、豊かで、より充実した幸せな年でありますようお祈り申し上げます。 さて、過ぎし申歳は沖縄の日本復帰二〇周年の意義ある年にあたり、いろいろと多くの慶祝行事が催されましたが、中でも県民待望の初の大臣誕生、伊江朝雄大臣の御就任は、私達全県民に大きな喜びと、希望と、感動を与えました。又琉球の歴史を語る本県最大の史跡、あの壮大な首里城も見事に復元し開城致しました。正に平成四年は本県にとってすべての面に大きな躍進の年でありました。更に又私達読谷村におきましても、戦後の一大行事として、復帰二〇周年記念村功労表彰式典の開催や、あの全県民及び全村民を湧かした甲子園高校野球春の選抜大会で、初出場の読谷高校野球部の感動極まる大活躍、又ニューヨークの世界の檜舞台において読谷魂を披露した残波大獅子太鼓の勇壮な大熱演、NHK大河ドラマ「琉球の風」撮影に出演した延一七〇〇人にものぼるエキストラの大奮闘等、正に本村の歴史を飾るすばらしい飛躍発展の年でありました。 又本村の教育行政も、村民各位の温かい御支援御協力によりまして、大きく充実発展をして参りました。あらためて皆様に深く感謝と御礼を申し上げます。 お陰様で今、村内の小中高校の児童生徒は元気いっぱいにいろいろな面で、実にめざましい活動をしています。あの全国少年柔道大会において渡慶次小学校五年生の喜屋武元気君が、見事優勝を果し日本一の栄冠に輝やきました。又作文コンクールにおいて古堅中学校三年生の荷川取奈緒さんが見事に文部大臣賞、読中三年生の喜友名大志君が県知事賞、渡慶次小五年生の大城和史君が全国農協作文コンクールで最優秀賞に輝やき、その他読谷中のソフトボール部、テニス部、音楽部、柔道部等も全国大会ですばらしい成績をおさめ、又古堅中のマーチングバンド部は沖縄及び九州大会で再び金賞に輝やき、その伝統の名門校として広くその名が知られています。その他野球部陸上部も大活躍しました。又日頃の学習面においても各学校の熱心な研究実践態勢と読谷村学力推進協議会の活躍によって家庭教育地域教育の推進をはかり、児童生徒の基礎学力の向上に大分成果を上げています。 又学校の施設設備の充実については、読谷小学校の水泳プールが見事に完成し、更に古墜中学校のプールも今建設中です。そして渡慶次小学校の歩道橋の完成、喜名小学校の渡り廊下の総改築、古墜小学校のアスファルト舗装工事の完了、読谷中学校の外構整備工事等が立派に整備されました。 又児童生徒達の県外交流事業も活発に進られており、あの雪国の北海道池田町との交流事業も十一回目を数え、又宮崎県日向市子ども会と読谷村子ども会の交流も十三回目に入り、山形県最上地区との交流も四回目を迎え、それぞれに親密で有意義な交流がなされています。 又平成四年度は懸案の教育委員会の機構を改革し、新たに文化振興課を設けました。村立歴史民俗資料館や美術館の整備充実をはかると共に、より一層の活動が展開され、文化財関係や伝統芸能の推進等、文化村づくりを目ざしてすばらしい活動をしています。 最後になりましたが、平成五年度も村民各位の御期待に副うよう職員一同努力精進を致す所存でございますので、よろしく御指導と御協力を賜りますようお願い申し上げ、新年のごあいさつと致します。
「国民文化祭石川'92ワールドフェスティバル」への招待を受け、文化祭上演が決まった「人形館てぃー」の山内さかえ代表らが十月二十七日午前、出発を前に役場に山内徳信村長を表敬訪問。山内村長から「世の中は文化の時代。地方の文化(ローカル)が全国、世界へと羽撃くことは喜ばしい。人形劇を通して県内、地域の子供たちに喜ばれ、皆さんの活躍は子供たちの純粋な感性に感動を与える。石川県での文化祭でも存分に頑張って頂きたい」と激励の言葉を送っていました。
多くの村民の協力のもと、NHK大河ドラマ「琉球の風」の読谷ロケは十月二十二日をもって無事終了。撮影への協力は、村民延べ一七〇〇人のエキストラが総出演した。 大河ドラマ「琉球の風」は、かつての海上交易で活躍する一六〇九年前後の激動期の「琉球王国」を舞台背景とした歴史物語。その壮大な歴史が、首里城の復元とあいまって今、甦らんとす。 ロマンを秘めたドラマ「琉球の風」が今年の一月から全国・津々浦々への放映に期待が膨らむ中、「琉球の風」読谷村推進実行委員会(山内徳信会長)では、村民エキストラの協力とご苦労に感謝する目的と、ドラマ撮影の無事終了を祝って、役員・関係者、全エキストラを対象とした『感謝会』を十一月二十日夕、残波岬いこいの広場において盛大に挙行。当日は、寒風吹きすさぶ小雨混じりのあいにくの天候にも関わらず、それでも会場には続々とドラマ出演した児童や小中高校生、婦人、老人など約八百人のエキストラらが参加して、実行委員会が準備した和牛のバーベキュウや牛汁料理等に舌鼓をうちながら和やかに懇談。席上、実行委員会の山内会長は「読谷村始まって以来、これだけの大きな仕事は過去にはなかった。撮影を首尾よく終了したのは多くの村民の協力のお陰。心から感謝致します」とお礼を述べ、また、この日に合わせて東京からお礼に駆付けたNHKエンタープライズの高僑康夫取締役が「読谷のエキストラは日本一である。これまでのどのエキストラよりも表情が良く演技がうまい。それは、画面の上で映像となって良い番組になるものと確信してます。放送を楽しみにして下さい。読谷は琉球の風のふるさと。撮影への協力ありがとうございました」と最大級の賛辞を送り村民にお礼を述べました。会場では、「琉球の風・写真スナップ集」を観覧し、撮影談議に華を咲かせつつも大河ドラマ「琉球の風」が放映される日を楽しみに待つ多くの名男優・名女優らの姿で賑わっていました。
儀間区の各種集会を始め、区民の憩いの広場として親しまれてきた儀間公民館は、建設から34年の歳月を経て老朽化。このため、儀問区(新垣健吉区長)では五年前から青年会や婦人会、老人会などの各種団体を含め区民一丸となって再建計画に取り組んでまいりました。 国、県、村の補助を受け、昭和六十三年度から集落内道路整備、農村公園工事(公民館広場)などを皮切りに事業着手され、農村公園は平成三年十二月に完成。待望の「儀間農業集落多目的集会施設」(公民館)の建設工事は、平成四年八月十七日に着工。十一月十四日には"棟上げ式"が関係者多数が列席するなか行なわれ、棟上げ式の場で新垣区長は「公民館が出来れば一段落、安心しました。これまで十八名の建設委員会を設置して区民意識を高め、建設資金を積めたて、備品購入資金を募集するなど区民一丸となって公民館建設に取り組んできた。区民で活発に利用して公民館活動と区の発展を目指したい」と抱負を語り、更に「国・県、関係機関の協力に感謝しています」と述べました。 同区の集落内道路整備と公民館は平成五年の竣工となる。 公民館の総面積は約二九五㎡。館内には集会室やステージ、事務室、図書室、調理室、和室などを配置したモダン的な設計構造。 【公民館の工事概要】 ▼建築工事 ・(株)山中組 六三、八六〇、○○○円 ▼電気設備工事 ・読谷電気水道工事社 五、〇四七、○〇〇円 ▼機械設備工事 ・(有)大優工業 四、七三八、○〇〇円 ▼設計管理委託業務 ・(有)永田建築設計事務所 一、七五一、○○○円 ▼工期 ・平成四年八月十七日~ ・平成五年二月十七日
村内で"棒術"を継承している長浜区、渡慶次区、宇座区、波平区、座喜味区の五字の棒術を一同に集め披露する「第二回棒交流会」(山内徳雄実行委員長の主催)が十一月二十一日夕、村中央公民館ホールにて行なわれました。 棒交流は、棒術の振興を図り伝統芸能の継承と青少年に棒術の素晴らしさを知ってもらうことを目的に開催されているもの。会場には百五十人余の村民が詰め掛ける中、舞台では波平こども会の演技を皮切りに、座喜味こども会、青年会など七十人が区に伝承される棒術の型を実演。「エイッ!」「オーッ」と気合いを発して棒を鮮やかに操り、格闘する迫真の演技は観衆を圧倒。演技のたびごとに会場からは口笛が鳴り響き、盛んな拍手が沸き起こって、会場は熱気に包まれた。 また、この日の会場には将来に向けて交流の幅を広げようと村外から沖縄市山内、北谷町、石川市、勝連町津堅の棒保存会の方々が招かれ、実演の後に関係者間の交流会も行なわれるなどして賑わい、主催者を代表してあいさつした山内委員長は「棒術は字によって型が違い、それぞれの特徴がある。伝統芸能の継承を図りながら底辺拡大や他の地域の棒術を掘り起こし、将来的には全県下の関係者を招いて読谷を棒術のメッカにしていきたい」と抱負を語っていました。
「あなたは何年生まれですか。 子、丑、寅、酉?」 「西年です」 「それでは今年トゥシビー(生まれ年)ですね」 子、丑、寅、卯、辰、己、午、未 申、西、戊、亥のトニ支は、わたしたちの生活のなかに息づいている大事な風習です。その十ニ支はどのようにして始まったのでしょう。 むかし、むかしのこと、十二ヵ月になぞらえて、十二支を決めなければいけないということになりました。 それで、王様は、動物全員に、「何月何日の何時までに私たちの宮殿に集まりなさい。先着十二番まで順番をつける。これは後世に残ることだから、動物たち、がんばりなさい」 と、おふれを出しました。その使いの役はねずみでした。ねずみはチョロチョロ動きが機敏なので、いつも小間使いに当たっていました。 連絡を受けた動物たちは、一番をめざしてそれぞれ準備に取りかかりました。 そこで、やがて出発という日、ねずみは牛小屋の天井にいました。 牛は、 「わたしは歩くのが遅い力ら早く準備してみんなより先に出て行こう」 と、背中に食料などを積んでいました。 ねずみは悪がしこかったので、 「あっこれはいいことを考えた。牛に乗っかって行こう」 と、牛の角に潜りこみました。 そうして、牛の角をかじりながら、自分の歯もみがきながら、牛の角に隠れて行きました。 緑の草原に宮殿をめざす動物の列が続きました。 牛は心がけが良いので、宮殿の人口、受付のところで、 「はい!私が一番」 と、かけ声をあげました。 すると、ねずみが、ポンと牛の頭、からおりて、牛より先にゴールインし、 「はい!私が一番です」 と、言いました。 牛はあっけにとられて 「モー」 と、怒りました。 そのあと、虎、兎、龍、蛇などが次々にやってきて、猪で 「はい!十二番、ここまで」 と打ち切られました。 そのとき、猫がハァーハァー息を切らして走ってきました。十三番目に着いた猫は入りそびれて、顔をまっ赤にしてねずみにくいかかりました。 「どうして、わたしを動物仲間からはずすのか」と、言うと、 「わたしたち動物は、家の中では飼われてなく、全部穴の中で生活しているのだが、おまえだけは、人間様のござの上、床の上、膝の上に座ってぜいたくな暮らしをしているからだよ」 と、ねずみが言ったので猫はますます怒りました。 「このやろう、許してやるものか」 と、ねずみを見つけると取って食べるようになりました。 それで、猫とねずみは今でも大変仲が悪いということです。
あらゆる生き物は水無くしては生きられません。この地球は水がある星だからこそ万物も住めるというものです。生物の一員である人間も例外ではありません。それどころか、陸の上でどの生物よりも水を多く必要とするのは人間ではないでしょうか。 沖縄での古代の村のことを「マキョ」といったようですが、それは守護神の鎮(しず)まる御嶽(ウタキ)を腰当て(クサティ)として集落を構えたということです。 そのことはまた、水とも深い関係があったと思われます。ということは御嶽(ウタキ)は普通森にあり、その麓(ふもと)には泉などが多いからです。 やがて人々は平地にも集落を作りますが、その時もやはり水のある土地を選んで行ったことでしょう。 昔から波平の集落を取り巻く抱護林(ホーグ)に沿うて十五ヶ所に共同井戸があったということですが、その内、後井戸(シーリガー)は読谷小学校用地に、蓋井戸(フタガー)は読谷消防署敷地に、田和多井戸(タータガー)は個人用地に、御願ヌ井戸(ウガンヌカー)は読谷中学校用地に入り、その他三つの井戸とともに姿を消しました。 現在残っている井戸は、仲ヌ井戸(ナカヌカー)、川ヌ上ヌ井戸(力ーヌイーヌカーグワー)、大井戸(ウフガー)、亀倉根ヌ前ヌ井戸(カミクランニーヌメーヌカー)、武士井戸(ブシガー)、大屋井戸(ウフヤーガー)、新井戸(ミーガー)、そして写真にある湾田井戸(ワンダガー)ということです。 かっての湾田井戸は、老松の生い茂る湾田松尾(ワンダマーチュー)の麓(ふもと)にあり、苗代田を前にひかえたのどかな美しい風光の中にありました。 絶えることなく湧き続ける澄み切った軟水は、最高の飲料水として知られていました。 伝えによりますと明治三七年(一九〇四)の七ケ月の干ばつ(ナナチチヒャーイ)の時、他の村では水の奪い合いさえあったということですが、波平では湾田井戸をはじめとする村抱護林(ムラホーグ)の十五の共同井戸の水を分け合い、譲り合って七ヶ月の早魅(かんばつ)をしのいだと言われます。 (参考 新垣秀吉さんの手記) このような井戸は村の産井(ウブガー)と呼ばれ、水は新生児の産湯や水撫(ウビナディー)にはじまり、末期の水に至るまで限りない恵みを村人たちに与えてきました。 そして敗戦の翌年(一九四六)、帰村を許された村民は波平と高志保の二つの集落にしか住めないで、大方の読谷南部の人々は波平にお世話になり、この湾田井戸の水で渇きを癒し、命をつないだことでした。このことは忘れてはならないと思います。 世の多くの変遷にあいながらも、湾田井戸は、今でも清澄な水をたたえています。