【見出し】フランク・ウィズナー米国防次官読谷補助飛行場の返還を表明
村民が心をひとつに “黄金の花咲くむらづくり” を推進しよう 平成6年3月11日「日米安全保障協議委員会(東京)の次官会議で読谷補助飛行場の返還問題が話し合われ、米側が早期返還の意向を表明しました。
検索指定条件
村民が心をひとつに “黄金の花咲くむらづくり” を推進しよう 平成6年3月11日「日米安全保障協議委員会(東京)の次官会議で読谷補助飛行場の返還問題が話し合われ、米側が早期返還の意向を表明しました。
三月十一日午後、役場の閉庁間際にマスコミから『読谷補助飛行場が返還される』とのビッグニュースが飛び込んできた。その後、ニュースは刻々とテレビやラジオで大々的に報道され、村内外から大きな反響を呼んだ。 報道の内容は、十一日東京で開かれた日米安全保障協議委員会の次官会議で、来日中のウィズナー米国防次官が読谷補助飛行場の返還問題について『近い将来進展が期待できる』『次回の次官協議の時にはこの問題は議題にならないだろう』と、米側が読谷補助飛行場の早期返還の意向を表明したというもの。 この報せを聞いた山内徳信村長は、喜びの表情を見せつつも直ちに担当職員らに情報の収集を指示し事実の確認を急いだ。そのような中、矢継ぎ早にテレビやラジオから報道される"読谷補助飛行場年内にも返還"のニュースを見るにつれ、その時までに慎重に慎重を期していた山内村長も、いよいよ返還が間近に迫っていることを実感した。 この報道により、マスコミ各社(新聞記者)が村長に記者会見を申し出、きゅうきょ午後七時過ぎから記者会見がはじまった。 会見の席上、山内村長は「喜びを表す言葉が見つからない」声を詰まらせ、しばし絶句。そして、朗報の喜びを噛みしめるように語った。 「今日のくる日を待っていた。会議の中(日米安全保障協議委員会の次官協議)で、読谷補助飛行場が近い将来返還できるというアメリカ国防次官のコメントに接し喜んでいる」と話したうえ、「読谷補助飛行場の戦後処理問題の解決は読谷村民が長年訴え続けた懸案事項であった。日米外交ルートで返還の方向づけがなされたことは三万三千村民にとってこのうえない喜びである。返還に向けた闘いが長く苦しかっただけに胸がいっぱいで、言葉ではとても表現できない」と目を潤ませた。 また、読谷補助飛行場の返還が具体化してきた次官会議の結果について、山内村長は「戦後五十年を前にして、やっと読谷飛行場の問題解決へのスタートラインにつけたことは日本政府の努力とアメリカ政府の理解によるもので、時宜を得た結論だと思う」と評価。そして、今後の対応については「読谷飛行場転用基本計画を基に、返還にそなえての受け皿づくりを推進していく。国や県ねどを含め、いい方向づけをするための具体的な話し合いをしていきたい」と語り、更に「自主的・主体的・創造的に計画を進め、跡地に教育、文化、政治、行政産業など村民すべての活動拠点を作り、読谷の地域特性を生かした"黄金の花咲くむら"をつくっていきたい」と述べ、読谷補助飛行場の戦後処理への実現に向けて夢をふくらませた。 飛行場用地の返還問題 読谷飛行場は昭和十八年夏から翌年の暮れにかけて造られた戦時用飛行場であった。 国家総動員法的な非常事態勢の中で、「戦争を勝ち抜くため」という大義が強調されて、地主に有無を言わさず強制的に接収した。旧日本軍は「目的(戦争)が終われば土地は返す」と口約束したが、戦後は米軍基地となり、今日に至ったのであります。 読谷補助飛行場でパラシュート降下訓練が実施されるようになってからは、事故も多発し、昭和四〇年六月、自宅の庭で遊んでいた小学五年生の少女の頭上にパラシュートで投下されたトレーラーが落下し少女が圧殺される事故など、当時の村民の恐怖のどん底に陥れ、県民を震撼させた。復帰前から今日までの米軍パラシュート降下訓練による施設落下事故は数多く発生し、演習の度ごとに村民の生命と財産は絶えず危険にさらされ続けてきた。 読谷飛行場用地は沖縄県が日本復帰したにも関わらず、問題は解決されないまま二十二年の歳月が経過した。 戦前の旧日本軍の土地接収に始まり、戦後は米軍基地となったのである。 こうした背景から昭和五一年二月十四日に「読谷飛行場用地所有権回復地主会」が結成され、読谷補助飛行場用地の返還を求めた度重なる要請や陳情が繰り返されてきた。 このような経緯と背景から、「パラシュート降下訓練場の早期廃止と同用地の全面返還」を訴え続け、また、事故ある度ごとに米軍や日本政府に対して強力な抗議・要請行動を展開し、「読谷飛行場の返還なくして二十一世紀の読谷村の発展はない」と強い態度で日米両政府関係機関に返還を迫ってきた。 読谷村民の願いは、遂に山内村長を"米国政府への直訴"へと駆り立て、村長は太田県知事らと共に平成三年七月と平成五年五月の二度にわたる渡米を行い、米国政府の関係機関や議会関係者及び軍当局に対して読谷飛行場問題解決への理解と強力を訴えた。 この訪米直訴の成果は、いよいよ現実味を帯びてきた。 沖縄の基地問題で来日したラーソン米太平洋軍司令官は十二月一日、在日本軍大使館での記者会見で「二、三ヵ月内には沖縄住民や日本政府と米軍の妥協案を出したい」と述べ、年明けにも同問題で動きがあることを示唆。これを受け平成六年二月二八日、在沖米軍基地問題の解決のために訪米した米山市郎防衛施設庁長官は、米国防省と国務省高官と会談した。その会談の中で米高官らは読谷補助飛行場返還問題に言及し「返還の方向で検討してみましょう」と述べ、米側として初めて読谷補助飛行場の返還に積極的な姿勢をみせた。 そして遂に、三月十一日、フランク・ウィズナー米国防次官と畠山防衛庁事務次官出席の日米安全保障協議委員会で、ウィズナー次官が「読谷補助飛行場の返還問題については近い将来進展が期待できる。次回の次官協議の時にはこの問題は議題にならないだろう」と、早期返還の見通しと米側の意向が表明された。 接収から約五〇年、日米合同委員会でパラシュート降下訓練場の機能移設が合意(昭和五五年十月)されてから十四年、長い苦難の道程を経ててやっと読谷補助飛行場用地が基地から開放され、返還される方向づけがなされた。 私たちは、今後も村民が心を一つにして一致協力し、読谷補助飛行場の戦後処理問題の解決に努めてまいりましょう。
本土復帰(昭和四七年五月)という世変わりの時代に産声をあげ、時代の変遷とともに歩んできた読谷村商工会(大城勝哲会長)が創立二〇周年の節目を迎えたことまら、商工会では三月八日、村総合福祉センターにおいて盛大に「読谷村商工会設立二〇周年記念・祝賀会」を挙行しました。 商工会設立の二〇年間が、【商工会組織の体制と確立と経営改善普及事業を中心とした活動】。後半の十年間は、昭和五九年の読谷商工会独自の地域ビジョンの作成から始まった【ビジョンの実践、具現のための地域振興事業の推進、地域づくりの先導的役割を担っての"むらおこし事業"の積極的な展開】であり、その成果が、むらおこし会社「株式会社ユンタンザ」び設立と併せ、「琉球新報産業活動賞」を受賞した。これは、読谷村商工会のたゆまぬ努力が、地域づくりの評価につながったものと言えましょう。 式典・祝賀会にぎわう 設立二〇周年を節目に、商工会ではこの日(三月八日)の午前、降りしきる豪雨の中、「記念モニュメント」の除幕式を残波岬で挙行した。このモニュメントは商工会の団結と組織力を内外にアピールすると共に、二十一世紀に向けた商工会の決意を示すことを目的に建造。そのモニュメントは、読谷村の歴史的人物・奏期をシンボライズしている。 (現在は台座のみ)。 午後四時には村内外からの来賓や大勢の関係者らが出席ゆる中、「記念大会・祝賀会」が催され、商工会設立二〇周年を祝った。 大会では、大城勝哲大会長が「商工会の二〇年は、前半の十年が組織体制の確立と経営改善普及事業が中心で、後半の十年は地域ビジョンの作成、実践、推進を担っての活動。地域振興事業の推進など、むらおこし事業を積極的に展開してきた。今後も村民の豊かさとゆとりを求め、地域特性を生かした産業づくりに頑張っていきたい」とあいさつ。また、来賓祝辞の中では山内村長が「商工会の前半の十年は組織の充実という慌ただしい時代であった。その後は商工会が輝いている十年。これは時の役職員らが心を一つにした必死の努力のたまもの。"汝の足元を深く掘れ、そこの泉あり"を具現化したものであり、大きな足跡を残した。どの組織より豊富で多様な人材、可能性を持っているのが商工会。知恵、アイデア、実践力を集め、雄々しくはばたいていくことを三万余の村民が大きく期待している」と激励した。 大会では歴代会長や功労・功績者の表彰をはじめ、大会宣言・決議なども行われた。 大会終了後は引き続き祝賀会へと移り「鏡割り」で威勢よく景気づけが行われた後、ステージでは華やかな琉舞「松竹梅」などをはじめ、商工会青年部の「獅子舞」や婦人部の「南の島」、ユンタンザむらおこし塾一期生"新風の目会"による「くずれ浜千鳥」の余興が繰り広げられるなど、多くの関係者が読谷村商工会のこれまでの歩みを祝福すると共に新たな飛躍・発展を誓っていた。
昭和四七年五月十五日、沖縄県の日本復帰に伴って「商工会の組織等に関する法律」が沖縄にも適用され、これを受けて県、県商工会連合会が各市町村に商工会設立の行政指導に乗り出した。 本村では、役場経済課が商工業者に呼び掛けて設立に向けた準備委員会を設置。翌年(昭和四八)の九月六日には発起人会が開かれ、設立認可の具体的作業が始められた。しかし、復帰後の目まぐるしい時代の中にあって会員獲得に難渋を期する中、発起人会は『これから相互理解を深め、相互扶助の精神で難局を乗切り、時代の趨勢に対処しよう』との方針の下に組織化の重要性を力説。そして、商工業者の同意を得ると共に、諸々の法的条件を整備して同年十一月十一日に「(公益法人)読谷村商工会の創立総会」を開催し、読谷村商工会が設立された。だが、設立にはこぎつけたものの事務所は当初、役場経済課に一対の机をおいてのスタートであった。その後、事務所は四回の移転(間借り)を経えながら、その都度対応。やがて会員数も五百人を越え、厳しい経済環境の中での会員の期待は大きく、商工会の果たす役割と責務は極めて重要になってきた。このことから商工会の活動拠点となる会館建設の必要性に直面し、昭和五六年五月、第八回通常総会で建設期成会が設置されたのを受け、宿願の「商工業研修等施設」(商工会会館)が建設された。 むらおこし事業を展開 商工会のゆるぎない城(会委員の拠点会館)の完成に伴い、商工会ではこれを礎に、飛躍発展の新しい時代を築いていくことになる。 【地域ビジョンの作成】 商工会では国、県の指定(昭和五九年度)を受け、「地域づくりの具体的な方策を求めて」をテーマに、村内商工業社の指針となると共に、第一次産業、観光、地場産業など村経済の活性化を促進することを狙いとした地域ビジョンの作成にとりかかった。 その結果、村内の意向調査等を踏まえて作成されたビジョンの具体的な提言は、 ①村づくり運動ビジョン。 ②産業活性化ビジョン。 ③観光開発ビジョン(残波岬) ④地場産業活性化ビジョン。 に大別され、二十六項目にわたる事業内容となった。 商工会では、この提言を受けてビジョン実現委員会を組織し、提言の可否を検討する一方で、村内各団体の「若者によるむらおこし交流会」を開き、むらおこしへの気運づくりに努めた。 【むらおこし事業へ着手】 昭和六一年度、いよいよ商工会が「むらおこし事業」に着手。それはまず「特産品開発」と「観光振興」の事業内容別に区分しての活動に始まり、そして特産品づくりでは「読谷紅いも」を素材にした数々のヒット商品(和洋菓子の紅芋シリーズ)を開発。観光振興では、本村の自然や風土に密着した「文化的資源を活用した観光」を柱に着々と事業を展開し、地域活性化を推進。その結果が、むらおこし会社「(株)ユンタンザ」の設立につながると同時に、栄えある「琉球新報産業活動賞」の栄誉を受賞することとなった。
沖縄口の魅力をたずね、日々の生活をシマ言葉で豊かに彩ろうーと、二月二十七日午後、「第二回スリー語やびら沖縄口」(読谷村教育委員会主催)が総合福祉センターにて開催されました。 これは、今失われつつあるウチナーグチを見つめ直し、子供たちに継承しようと開かれているもの。 沖縄口行事の開催に先立ち村教育委員会では村民を対象にウチナーウタアチミ(琉歌募集)を行った。その結果、村内外の方々から二百首余の琉歌が寄せられた。 沖縄口のオープニングでは具志堅タケさんと国吉トミさんが民話の世界の語り部として登壇し、「ハブの嫁入り」「エイサーの物語」をウチナーグチで語って訪れた聴衆に感銘を与え、その後、主催者を代表してあいさつにたった伊波清安教育長は「ウチナーグチは文化。ウチナーグチに興味と関心を持って語り継いでいこう」と呼び掛けた。 ステージプログラムでは小、中学生らによる「ワラビンチャー沖縄口大会」をはじめ、「ワンニンカタヤビラ」と山内村長や野崎文子さん(今を生きる語り部の会)が熱弁。その後は「ミーグスイ、ミミグスイ、ヌチグスイ」と称して、琉舞や組踊「忠臣護佐丸」(喜名)の阿麻和利名乗りの場、歌劇「悪魔狂」(渡慶次)の御願の場、知花盛雄民謡グループによる民謡ショーなどが華やかに披露され、会場を沸かせていた。 また、応募のあった琉歌は『くとぅばなさき』として冊子にまとめられ、参加者らに配布された。 【ワラビンチャー沖縄口大会の発表者】 ・大城ゆいな(渡慶次小二年) ・波平美幸(喜名小五年) ・松田伸也(古堅小五年) ・玉井智文(古堅南小五年) ・与那覇幸枝(読谷中二年)
ふれあいを通して敬愛の心を養おう-と、二月十七日午前、渡慶次幼稚園(与座朝久園長・校長)の園児七十八人が「精神薄弱者施設・高志保園」(知念長子園長)を訪れ、同園の園生らと交流を深めた。 これは、『出会いや触れ合いを大切にし、楽しい一時を過ごす』ことをねらいに、渡慶次幼稚園の年間行事(福祉授業)の一環として取り組まれたもの。 高志保園の交流会場には多くの園生らが一堂に集う中、舞台ではねじり鉢巻きにウッチャキ衣装の園児や浴衣姿の園児らが元気いっぱいに遊戯「キジムナーがチョーンチョン」やリズム太鼓「星のパーランクー」、「合唱」などを披露すると、これに高志保園の園生らにも笑顔がこぼれ、ステージに合わせて身体でリズムをとり、手拍子をするなどして楽しそうに交流の一時を過ごしていた。 また、福祉事業としてふれあい交流を行ったとしてふっれあい交流を行った渡慶次幼稚園の玉城絹子教諭は「近くにこういう施設があり、みんなが一生懸命に働いている。子供たちに幼いときから地域との触れ合いを通して敬愛の気持ちを育み、施設を知らせることも大事なこと。このことによって親が地域に目を向け、子供たちを通して大人が福祉に関心をもつようになると思う」と話していた。
地域に根ざした生涯"楽"習をテーマに、三月一日~六日の日程で「第十八回中央公民館まつり」が開催されました。 まつりは、中央公民館や各字公民館、各種団体、サークルなどの活動の発表を通して関係団体の親睦及び情報交換などを行い、地域に密着した公民館活動の在り方を探り、村民への主体的な生涯学習の啓発を図ることを目的に毎年開催されているもので、いわば、まつりは学習成果を総合的に発表する集大成の場。 まつり初日には関係者らが集う中、館内にて開幕のテープカットが行われた(雨天の為)。そのセレモニーでは主催者を代表して仲間朝健中央公民館館長が「今年は千四百人を超える参加者があり、生涯学習に多くの人々が参加した。まつりに多くの村民が訪れることを希望している」と成果を報告。また、山内村長は「数々の作品は実に見事で肝心をうつものがある。各字と結び各種講座が展開され、村民運動に発展していることに大きな喜びを感じる。観る村民にとっても中央公民館まつりは大きな誇りである」とウチナーグチで語り、まつり出展者らの功績を称えた。 その後館内では、展示作品の鑑賞会が行われ、参加した関係者らは、ホールいっぱいに展示された多くの作品(水彩画や水墨画、書道、ペン習字、やちむん、バッグ、布の絵本などの作品二百五十点余)を見て回り、村民の力作の数々に深い感動を受けていた。 また、五日夕には公民館講座の受講生やサークル仲間らが一堂に集い、和やかに「交流会(前夜祭)」が催され、それぞれが会食を共にしながら交流・懇談を深めたのをはじめ、六日には盆栽実技やアマチュア無線などの「屋外イベント」や「呈茶コーナー」、ステージでは華やかに「舞台発表会」が繰り広げられ、会場を訪れた大勢の観衆を楽しませた。
県内唯一の公認競技「'94おきなわマラソン」(沖縄陸上競技協会、中部市町村圏事務組合、沖縄県公園・スポーツ振興協会、琉球新報社主催)二月二十日、県総合運動公園を発着点として42・195キロのコースに健脚が競われました。 同大会は、中部広域圏の活性化、圏域住民の健康増進、体力増強、スポーツの振興等の目的から「中部は一つ」を合い言葉に、国際的な規模を展望しつつ開催。今年で第二回目の大会となる。大会コースは中部広域市町村圏の六市町村にまたがり、緑豊かで眺望の変化に富む中部の街路や独特な景観を有する嘉手納基地内道路を通過するコースで、今大会には県内外からのランナーやジョガーらが昨年の第一回大会を約三千人上回る一万百三十七人(男・八千二百八十人、女・千百五十七人)が出場。読谷村からは二百九十人が参加した。 午前8時、沖縄陸上競技場を一斉にスタートしたランナーらは中部十二市町村の特色ある応援をバックに中部街道をひた走る。その中で、主催団体の一員としての本村の役割は30キロ地点での給水と救護を担当。この地点では役場職員をはじめ村婦人会(安田菊子会長・二十人)が給水班を、村青年会(山内嘉親会長・十人)が救護班を担った。 さすがに30キロ地点では大多数のランナーの顔にも疲労の色があり。切れ目なく続く疲れた表情のランナーに、婦人会員や青年会員らは「あと少し、ガンバッテ!」と声が枯れる程に声援を送る一方、ランナーに水を差しのべ、筋肉治療用スプレーを吹き掛けマッサージを行うなど大活躍。温かい激励に、ランナーらは「ありがとう」と応え、再び元気を取り戻してゴールに向かって駆けて行った。 本村での受賞者は次の通り。 【読谷村長賞】 ・天久武俊(2・57・31) 【読谷村議会議長賞】 ・松嶋あけみ(4・02・57) なお、第一回大会では競技の完走者に対し"完走証"が授与されていたが、今大会からは"記録証"が授与された。
少年消防クラブ員の消防活動を通して、村民への消防活動の理解と防火思想の敬蒙を図ろう-と、読谷消防本部では三月五日午後、「少年消防クラブ野外活動」座喜味の川辺で実施した。 これは、少年たちが地域を探検し、危険箇所の把握、消防の救助・救急法を体験することによって消防活動への理解と基礎知識の会得を目的に行われたもので、この種の活動は県内では本村が初めて。 野外活動には消防職・団員をはじめ、渡慶次少年消防クラブ員三十人、座喜味少年消防クラブ員十人の男女四十人が参加する中、座喜味公民館広場では出発式が行われた。 出発式では棚原栄福消防庁が「初めての体験学習で知識を養い、村民への啓発や訓練に励んでほしい」と激励。これに、少年消防クラブ員を代表して玉城まゆみさんが「消防の皆様方の教えを十分に守り、今日一日一生懸命に頑張ります」と決意表明。その後、全員が隊列を組み、区内に組み、区内にアピールしながら訓練地へと向かった。 川辺の訓練場所では消防隊員らのテキパキとした指導の下、クラブ員らが機敏に活動を展開。救助活動では川の上に張られたロープを伝わって救出する「三重もあいによる救出」、木と木を結んだロープを伝わる「スタンド渡過」に果敢に挑戦。また、救急活動では三角布を利用した骨折時の「応急法」、出血時に対応する「止血法」などに真剣な眼差しで取り組んでいた。
「読谷村共同販売センター」が十周年の節目を迎えたことから同センターでは二月二十六日、二十七日の両日、「読谷やちむん市」(読谷村社会福祉協議会、共同販売センター主催)を開催。同センターが実施した初のやちむん市は、初日から大勢の人々で賑わい活況を見せました。 昭和五十八年。全国にも例の少ない地域の伝統工芸品(陶器・花織)をはじめ、本村の特産品を販売し、その収益金を社会福祉へ還元する目的に「読谷村共同販売センター」はスタート。以来、村民に親しまれて十年、同センターではこれまでの愛顧への感謝を込めると共に、村内で活躍している各窯元が一同に会してその親睦・交流を図り、これからのさらなる飛躍のために十周年記念事業「やちむん市」を企画した。 "伝統の技と情熱が生みだす手づくりの温もり"をキャッチフレーズに、読谷村農産物直売施設で開かれた市には村内の二十一窯元が様々な陶器類数千点をはじめ、(株)ユンタンザが特産品・紅芋シリーズなどを販売。所狭しに並べられた陶器類の数々は全商品とも市価の二割引きで販売されるとあって人気は高く、また、ユンタンザが販売する紅芋シリーズ(サーターアンダギー、アイスクリームなど)も好評で、市は初日のオープンから村内外から訪れた買物客の人だかりで盛況を極め、終日まで賑わっていた。 初のやちむん市を企画・開催した共販センターの長浜真賢店長は「予想以上の大盛況に驚いている。これを契機に陶工の皆さんの協力の下、今後も継続して年一回は開催していきたい」と語った上で、共販センターをピーアールする意味で、新たな展開として「農産物直売施設の有効利用として将来的には農産物や漁協物産展、福祉まつりなどが展開できないかと思っている」と抱負を述べ、山内徳信村長は「これまでこれたのも職員の努力をはじめ、陶工の皆様方や花織関係者の皆さんの協力、そして共販センターを利用して頂いた村民の方々のお陰で、第一回目のやちむん展が盛会裡に展開されていることにとても感謝している」と述べていた。 また、やちむん市では「ろくろの実演コーナー」も行われ、やちむんの里の若き陶工らが子供たちを対象に、熱心に陶器づくりの指導を行っていた。