【見出し】ゴールデンウィーク華やかにチビッコ芸能 観衆を魅了
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本村の環境美化の促進と清潔で美しい村づくりをめざすことを目的に、去る三月議会において『読谷村環境美化推進条例』(平成六年七月一日施行)が制定されましたが、本義会ではこの条例と併せ、議員提案の『読谷村の議会の義委員及び長の選挙におけるポスター掲示場の設置に関する条例』を可決致しました。これを簡単に説明しますと「ポスター条例」と言えます。 このポスター条例の制定目的は、選挙時において村内に氾濫し、村の美観を著しくそこなう立候補者の選挙ポスターを規制しようというものです。 この条例の制定により、今後行われる村長選挙や村議会議員などの立候補者は、選挙時には「選挙ポスター掲示場」(村選挙管理委員会が設置)以外へのポスターを掲示することは条例違反となります。 条例の制定は、本村議会義委員の積極的な提案に基づく条例であることから、その意義は大きく注目されるところです。 今年の選挙時(七月の村長選挙、九月の村議会議員選挙)においては"指定された掲示場"以外への選挙ポスターを掲示することは許されず、このポスター条例(平成六年四月十三日公布)に違反してポスターを掲示した候補者があった場合には、村選挙管理委員会は候補者にその撤去と通知を行うと共に、候補者がこれに従わない場合にはその候補者のポスターを撤去することができます。 "読谷村環境美化推進条例の趣旨"と"ポスター条例の目的"を深く認識し、選挙時においては立候補者が施行された条例を遵守しているかどうか、その候補者のモラルに村民は注視することになります。 読谷村「村長選挙の告示は六月二十八日、投票日は七月三日(日)」です。
琉球大学で美術工芸の教鞭を執る傍ら、本村の読谷山花織部門でもゆかりの深い安次富長昭画家の絵画展が村立美術館で四月九日午後にオープンし、展覧は五月二十九日までの日程で開催されました。 -光・風・土への憧憬- をテーマに「安次富長昭展」は開幕。その初日には大勢の関係者らが集う中、テープカットやオープニングセレモニーが行われ、セレモニーでは伊波清安教育長が「絵画展には作家の若い頃からの作品が順次展覧されているので、奥の深い素晴らしい絵画を堪のうして頂きたい」と主催者を代表してあいさつ。続いてあいさつした安次富氏は「平和な文化村づくりに邁進している読谷村で展覧会を開くことができ感謝している」と述べたうえで、「子供のころに母親とともに読谷村を訪れたとき、芋やソウミンチャンプルーでもてなされたことを覚えている。読谷は心のふるさとで印象が強く、展示で恩返しできれば嬉しい」と本村での思い出を語り、また、山内徳信村長は「素晴らしい企画展に多くの方々が参加していただき嬉しく思う、安次富先生には読谷山花織の普及・発展にも尽力いただいた。この美術館で先生の若い頃からのりっぱな作品を展覧できることを喜んでいる。児童生徒らにも刺激を与え、文化村づくりの大きな財産になるだろう」とあいさつした。 絵画展には、安次富氏が描いた一九五〇年代の具象画から抽象画などの油彩やアクリル画三十五点が出品され、氏の軌跡を描いた明るく豊かな色調の作品の数々は、観賞した人々を美の世界に誘い、大きな感動を与えていた。
平和への願いを込めて開催される「5・15平和行進」が十三日午前、名護(北部コース)、佐敷(東部コース)、糸満(南部コース)の三ヶ所からスタートした。 平和行進は、沖縄が本土から施政権が分離された対日講和条約発効日(一九五二年)の四月二十八日から本土復帰記念日の五月十五日までを「平和と暮らしを守る憲法月間」として設定され、毎年取り組まれている。 今年で十七回目を数える平和行進は、復帰二十二年にして依然として続く軍事的な情勢に加え、沖縄市での米軍F15戦闘機の墜落や「有事の際には核兵器を沖縄に持ち込む」という日米首脳の密約などがこの程明らかになり、このため、これまで那覇市内で開催していた県民総決起大会の会場が、初めて嘉手納町海兵公園に移された。 北部コースの行進団の一行は十四日に読谷に到着。本村では、長浜公民館で行進団を出迎え、村総合福祉センターまでの道程を行進して平和を訴えた。一行はこの日、宿泊地の福祉センターで山内徳信村長の講演「読谷村の平和行政」を学ぶ一方で、村内団体との交流を深めた。 翌朝(十五日午前九時)、センター前では出発式が行われ、出発式では激励に駆け付けた山内村長があいさつ。約八百人の行進団を前に山内村長は「5・15行進団を迎え、新鮮で新しい息吹・胎動・生命力に接して喜びいっぱいである。先輩らが苦闘して培ってきた意志が後輩らに受け継がれ、若者らの新しい平和勢力が次々と出てきたことを実感している。二十一世紀は共存共生の時代。沖縄・日本・世界に平和を訴えてほしい」と強調。また、行進団に参加した本土代表は「心の込もった手料理と貴重な講和に感謝します」と話した上で「沖縄の心(村長の講演を聞いて)を知った。沖縄は本土の一部であることを噛みしめ、沖縄の実情を本土に持ち帰って、一歩一歩平和を踏みしめながら頑張っていきたい」と決意を示し、出発式を閉じた。 福祉センターを出発した行進団は、楚辺通信所(ハンザタワー)~チビチリガマ(波平)~県道六号を行進して大木公民館で昼食。再び古堅~大湾~国道五八号を南下して「県民総決起大会」会場に合流し、基地のない平和な沖縄を築こうと力強く反戦平和を訴えた。
座喜味の住宅建設工事現場で発見(三月二十二日)された米国製不発弾の処理作業が四月二十日に行われ、住民千二百人余が避難した。 見つかった不発弾はアメリカ製の五十キロ爆弾。処理作業にあたって、村では消防本部、嘉手納警察署、沖縄県消防火災課、座喜味区、陸上自衛隊第一混成団一〇一不発弾処理隊で構成する「読谷村字座喜味地内不発弾処理対策本部」(山内徳信本部長・村長)を村総合福祉センターに設置し、不測の事態に備えて万全な体制を敷いた。 避難範囲は半径六〇〇メートルで、三〇三世帯(一二〇八人)が対象。午前九時には避難誘導班によって住民に対する避難勧告及び誘導を実施し、交通規制班は避難区域の交通規制や外周線の警戒に当たった。 九時五十分、危険区域からの避難完了の確認を踏まえて処理作業は開始され、不発弾は午前十時十八分に処理隊によって無事完了・撤去された。
長寿県・沖縄にふさわしい大会として、中高齢者の健康増進と陸上競技の普及を図ることを目的に開催される"生涯スポーツの祭典"「第八回・'94沖縄マスターズ残波岬駅伝大会」(沖縄マスターズ陸上競技連盟、読谷村主催)が四月十七日に開かれ、県内各地内から今年は三十三チーム二百七十八人が出場し、日頃鍛えた健脚を競った。 「ドラマが走る・感動が躍る」をキャッチフレーズに展開される残波岬マスターズ駅伝は、市郡対抗で覇を競う「マスターズの部」に十四チーム、ジョギング愛好者などが楽しみながら走る「ランナーズの部」(第六回大会から新設)に十九チーム、三十代から七十代の選手がエントリーした。 コースは残波岬公園内に設定された一周三キロの周回コースでマスターズの部が九区間42キロ、ランナーズの部が八区間39キロ。 いこいの広場前の村道を発着点に競技は、午前十時の時報(安田慶造助役の号砲)とともにランナーが一斉にスタート。選手は、それぞれの区間で激しいデッドヒートを展開しつつ、マスターズの部では一区で中頭(本村の饒平名俊江さん)がトップで通過、三区で二位に後退したものの、各選手がよく健闘して八区までトップの快走を見せたが最終区の九区で逆転を許し、惜しくも二位。浦添が昨年に続き二度目の栄冠に輝いた。 また、ランナーズの部でも浦添のピンキリランナーズが初優勝を飾り、両部門で浦添勢が一位を占めた。 閉会式では成績発表に続き表彰式が行なわれ、一位から三位までのチームがそれぞれに表彰を受けた。 ※写真 ※表(総合記録)
ゴーデンウィークの五月四・五日の両日、残波岬いこいの広場では「ふるさとバンザイ・チビッ子芸能スペシャル」(読谷村主催)で賑わった。 伝統芸能文化の保存・継承と創造・発展を目的に開催され、今年で三回目を数えるチビッ子芸能は"五〇〇キロの海を越えて響け"をテーマに、遥か南大東島からの「南大東太鼓」を迎えるという特別企画が組み込まれた。 芸能スペシャルの初日(四日)は天候不良にもめげず、広場ステージでは太鼓演奏メインに嘉手納町の總管太鼓や楚辺の島太鼓けいこ道場、南大東太鼓などを展開。心配された天候も五日には回復、津覇澄子琉舞道場や金城末子琉舞道場の大勢のチビッ子らによる数々の華やかな舞踊に民謡ショーが繰り広げられ、残波岬を訪れた数千人の行楽客や観光客などを魅了した。 一方、広場や講演などではバレーボールやバドミントン、テニス、サッカーなどのスポーツに輿じる親子、ローラースケートや自転車に乗って遊ぶ子供ら家族連れの姿であふれ、ゴールデンウィーク期間中の残波岬周辺は多くの人々で賑わっていた。
21世紀の高齢化社会に対応すべく、県民・村民が健康で生きがいをもち安心して生涯を過ごせる明るい活力ある長寿社会を築きあげるため、本村では「特別養護老人ホーム」の設置を痛切に感じ待ち望んでいました。 特別養護老人ホームの設置について、本村では昭和五十九年に読谷村長から、また、昭和六十一年には、読谷村民生児童委員連絡協議会及び読谷老人クラブ連合会がこれまで沖縄県知事に対して本村への設置要請を行ってきました。 その結果、今年、特別養護老人ホームの建設が認可され、その「建設起工式」が三月十五日に挙行されました。 起工式では、多くの関係者らが列席する中、建設工事の安全祈願が行われた後、工事施主と工事請負会社の代表らによって鍬入れが行われました。 特別養護老人ホームは「社会福祉法人・祥永会(しょうえいかい)」(盛岡斉四郎理事長)が建設。工事は、大普建設と八城建設の共同企業体で施工されている。 建設地は、座喜味一八七五-一番地で、建物面積は約八三九㎡・二階建の計画。
国道五八号線の恩納村山田給油所前には緑色の交通案内標識板がかかっています。それには読谷村七キロメートルとあります。 その地点からですと読谷村と恩納村の境界は一キロメートルもありません。それではあの交通案内標識板でいう七キロメートルとは一体どういうことでしょう。 頭の中であの場所からの七キロメートル地点を考えてみました。 もし国道を七キロメートル南下しますと、比謝か大湾あたりになるかも知れませんし、喜名で右におれますと波平あたりになるのではないしょうか。 かりに大湾か比謝あたりとしますと、読谷村全体を代表するには片寄り過ぎます。 波平はどうでしょう。波平には役場がありますし、村の地理的中央部にも近く、読谷を代表するにはうってつけです。 あの交通案内標識板に書かれた七キロメートルというのは、役場までの距離ではないかと思って南部国道事務所に問い合わせてみました。 電話に出た職員によりますと「普通距離表示の数字は、案内標識板設置の地点を起点として当該役場までの距離である」ということでした。やはり役場までの距離だったのです。 ところで役場といえば、沖縄戦の前までは喜名にありました。 戦後は一号線(戦前の名は県道、現在国道)から東側は米軍用地となり、建物等の設置はできなくなり、現在に至っています。 それで戦後は波平に役場はおかれたのです。 戦前の役場敷地は、現在では新しい国道によって二分され、昔のおもかげはありませんが、表通り(現郵便局前通り)に面した門のかたわらに立っていた「讀谷山村道路元票」は今も残っています。 (写真) ポツンと立った面の粗い石灰岩の石柱で、字も大分読みにくくなっており、うっかいすると見過ごしてしまいます。 戦前はこの「道路元標」を起点として、村内各地までの距離をはかっていたことでしょう。こうしてみますと、距離測定の際には、村内の場合は役場が起点となり、他市町村からの時は役場が終点となる(なった)と言えそうです。 さて、この「読谷山村道路元標」はいつ頃立てられたでしょうか。 はっきりしたことは分かりませんが、「讀谷山村」ということがありますので、建立は明治四十一年(一九〇八)以後でしょう。 ということは、それ以前は「村」とはいわずに「間切」といったからです。 「間切」から「村」という名に変わったのは、明治四十年に「沖縄県及島嶼町村制」が発布され、翌年四月一日から実施されたからです。
一ぴきの蠅がブーンと、王様のところへ飛んできて言いました。 「王様、あの雀というやつは、あなた様がまだ召しあがらないうちに、田圃へ行って、初苗を先に取って食べていますよ」 王様は 「そうか。これは許してはならない、ここへ連れてこい」 と言いました。 蠅は、 「これはいいことを言ったぞ」 と、喜んで家へ帰りました。 そして、雀は王様の前へ呼ばれました。 「おまえは、私たちが食べないうちに、田圃へ行って、稲の穂をつついて食べているそうだな、それはほんとうか」 「いえいえ、とんでもありません、主人が稲を刈りた後に、落ちている稲を食べているのです。決して王様より先には食べていません」 「ほんとうか。となとこれは蠅が嘘をついているのか」 「あゝ大きな嘘ですよ」 と、雀は堂々と言いました。 「まず、私の話を聞いて下さい。この蠅というやつは、素足で、あなたあの御飯の上やら茶碗の上や、どこもかも止まります。便所や汚い所から歩いて来て、すぐ素足のままで止まっていますよ」 「そういえば確かにおまえの言うとおりだ。これは許してはならん」 と、王様は怒りました。こんどは蠅が王様の前へ呼ばれました。 「おまえは、あの雀が話していたが、便所やあっちこっちから歩いてきて、素足のままで、私の御飯の上に止まるけど、おまえはそれでいいと思っているのか」 と言われ、蠅はもう驚いて、 「悪うございました。これからはもうしません」 とあやまりました。 それから、蠅は「ごめんなさい」と、いつも二本の前足をあわせる格好をするようになったということです。