【見出し】自治の殿堂「役場庁舎」の建設に着手 ~読谷村の行政・教育・文化・福祉・スポーツの拠点~
※写真 自治の殿堂「役場庁舎」の建設に着手 ~読谷村の行政・教育・文化・福祉・スポーツの拠点~ 10月16日午前11時、村民待望の「読谷村庁舎建設工事」の起工式が盛大に挙行され、出席した大勢の関係者らが工事の安全祈願と建設の着工を祝いました。
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※写真 自治の殿堂「役場庁舎」の建設に着手 ~読谷村の行政・教育・文化・福祉・スポーツの拠点~ 10月16日午前11時、村民待望の「読谷村庁舎建設工事」の起工式が盛大に挙行され、出席した大勢の関係者らが工事の安全祈願と建設の着工を祝いました。
県・市町村と地域の女性団体・住民が一堂に会し、男女共同参画社会の一層の促進を図ろう一と九月十一日午後、村総合福祉センターで「男女共同参画推進地域会議」(県・読谷村主催)が開かれ、男性の意識改革と女性の積極的な社会活動への参加を確認した。 会場には村民約二百人余が詰め掛ける中、会議は、大正琴・ゆいの会(大湾紀子代表)の演奏や歌で幕を開け、主催者を代表して山内徳信村長が「本村でも女性行政推進本部を設置し、歴史の一ぺージを開いた。女性問題は日本の歴史であり、女性解放の歴史であるとも言える。女性の主体的な取り組みが今問われている。男女が助け合い理解し合い、お互いが叱咤激励しながら男女共同参画型社会を築いていこう」と呼び掛けた。 引き続き、本村初の女性議員・仲村律子さん(渡慶次)と民生児童委員の国吉京子さん(高志保)による実践事例発表が行われた。 『人生の中でぶつかるいくつかの分岐点(女性として母親として強く生きるために)』と題して発表した仲村さんは、自身の体験を振返る中で「女性が十分に社会で活躍するためには、これまでの男女の固定的な役割分担意識、社会制度、慣行、習慣等を見直し、女性もそれぞれの個性や能力を発揮し、男性と共に積極的に地域づくりに望むべきだ」と唱え、そのためには「ほとんどの女性が背負いこんでいる家事労働や子育て、病人介護などの現状を踏まえ、男性の意識の改革、女性の固定観念をなくし、各自治会でも女性が参画できる体制づくりに女性自ら積極的に社会参画し、男性も女性も共に支え合って人生の中でぶつかるいくつかの分岐点を乗り越え、多岐の条件下におかれている女性は、母親として強く生きていくためにも男女共同参画型社会の実現に向け、参加しよう」と呼び掛けた。また、『チャンスを活かそう』と題して発表した国吉さんは「社会活動に参加することこそ、外の情報にも敏感になり、子育てへのヒントが得られると知った」と語り、「子育ては自分自身をつくることから始まり、できるかぎりの社会活動を通して、母親として、人間としての生き方に挑戦してみたい」と発表し、会場から大きな拍手を浴びた。 次いで東門美津子副知事による『女性と男性が共に創り上げる社会を目指して』の講話が行われ、県の女性政策の状況などを報告。自由討論では参加者が活発に質疑を展開するなど、女性の地位向上を求める本村初の推進地域会議は、男女共同参画型社会を築くべく、大きな第一歩を踏みだした。 会議の後は交流会が催され、読谷村婦人会(比嘉信子会長)の役員らが余興を披露すると共に、東門副知事はじめ、県の女性政策担当者らと村内の各種婦人団体の方々が、お互いの情報交換を行うなどして和やかに交流・親睦を深めていた。 また、本村で開かれた推進地域会議では、会議の冒頭、山内村長が「沖縄県の女性の地位向上に尽力してきた伊波圭子さんが十日に亡くなられた。生前の伊波さんのご努力と奮闘をみんなで分かち合おう」と呼び掛け、参加者らと共に黙とうを捧げ、故・伊波圭子さんのご冥福を祈っていた。
なお、本村では女性問題について、平成六年七月一日に役場の総務部企画課に女性政策担当者を配置し、女性行政に関する施策を推進。平成七年八月十七日に「読谷村女性行政推進本部」及び「読谷村女性会議」設置要綱を公布。 「推進本部」は当真嗣清助役を本部長に、部課長らの委員で構成(二十六人)。その下に関係係長らで組織する「実務者会議」(二十五人)を設置し、①女性問題解決のための諸施策に関する事項、②女性行政についての関係部課の連絡調整に関する事項などを任務とし、また、「女性会議」は、村民や知識経験者などの二十五人で構成(村長より委嘱)され、その任務は、女性行政に関する課題とその施策のあり方について調査研究し、その結果を村長に提言することになっている。 思春期の子供は親に何を求めているのかを学ぼう!と九月十九日、二十六日、十月三日の三回にわたって「思春期保健教室」(コザ保健所主催・村環境保健課共催)が、読谷村生き活き健康センターで開かれ、貴重な講演が行われた。 思春期保健教室は、小学五・六年生~中学・高校生を持つ母子世帯の母親らを対象に行われ、第一回目は「思春期の子供連への接し方」をテーマに石川清治琉球大学教育学部教授が講演し、第二反抗期が自立を学んでいる過程であることや父母の役割を説明。第二回目はコザ保健所保健婦の仲嶺廣子さんが「自立を援助するために~思春期の性とその対応~」をテーマとして男女の身体的な変化を説明した後、グループで問題点を話し合った。第三回目は読谷村青少年センターの知花江美相談員が「読谷村における思春期の子供達」を演題に講演。子供が親に何を求めているかを事例を紹介しながら報告し、教室には母子世帯の母親ら延べ六十人が参加し講師の説明に熱心に耳を傾けた。 今回初めて、母子世帯を対象に開かれた講演に、読谷村母子寡婦福社会の国吉トミ会長は「村内には約三百人余の母子家庭があるが、今回の講演はハンディをもちながら子育てに努力している人達を『一人で悩むな仲間を支え合うように』と励まし、ハンディを背負っている母親の生きていくための心の糧となり支えになった。『有意義でとても良かった頑張る』との声が寄せられた」と話し、「子供は社会全体の宝、この講座で母子家庭の方々が心のよりどころを求めていることが理解できた。社会の宝を育んでいくためにも、これを機会に今後もこのような企画を継続して開催してほしい」と切望した。 九月の第三日曜日は「世界国際ビーチクリーンアップデー」として世界約七十ヵ国の人たちが海浜清掃を行うという。県では沖縄インターナショナルクリーンビーチクラブ(エド・サンチェス会長)が「沖縄クリーンアップゆいま一るキャンペーン」として、十七日に本島の辺戸岬から喜屋武岬までの全県的な海浜清掃を実施。本村でも残波岬や宇座ビーチの清掃が行われ、作業には大勢の高校生や役場環境保健課の職員らが参加し、海辺のごみを収集した。
ジョギングや健康体操などの体力づくりをとおして人の輪を広げ、地域づくりに積極的に貢献しようと、昭和六十三年十月に結成された「楚辺走ろう会」(我謝孟正会長・会員数三十六人、内女性八人)の長年の活動が高く評価され「第十回スミセイ健康財団賞」の全国表彰に輝いた。 「スミセイ健康財団賞」(法人・住友生命健康財団)の表彰は、地域に根ざした健康スポーツのサークルを讃え、顕彰し活動支援をすることによって健康増進の啓発に資することを目的に、同財団が毎年、全国の優良サークルを対象に行っているもの。 入賞基準は、設立後五年以上経過し、その実績が明らかで、二十五名以上の会員を有し、健康づくりの推進方針と活動が組織的・計画的に行われ年間を通じて継続的に活動し、今後一層の発展・充実が期待されるサークルが表彰の対象。 楚辺走ろう会の表彰は、同会の活動がその基準を十分に満たしていることから、村教育委員会の推薦を経て、同財団の審査で決まったもの。那覇市の住友生命沖縄支社で行われた表彰式(九月二十八日)には我謝会長が出席し、栄えある表彰状と十万円相当の賞品(目録)を受賞した。 誇りある全国表彰で、走ろう会では同日、ただちに会員らを招集して受賞報告を行うとともに盛大に「受賞祝賀会」を催した。 公民館で行われた祝賀会には比嘉恒倫区長はじめ、同区出身の村議や県議、上地力社会教育課長、読谷救護園職員に県内のトップランナー・城間哲夫氏らが招かれる中、あいさつに立った我謝会長は「我々は区民の協力や地域に支えられながら生活している。お互いの健康を維持していこうとする活動が今回の受賞につながった。今後とも当初の目標を確認し合い、区民の子供たちや親にも常に声を掛け合って、より一層地域の発展に尽くしていこう」と語る中、比嘉区長や招かれた来賓の方々からはそれぞれに祝辞と激励のことばが述べられた。また、結成当初から楚辺走ろう会に関わり、指導・助言を行ってきた城間哲夫氏は「走ろう会の皆さんが地域に根ざした活動を継続し、後継者育成に努めていることや公民館を中心として活動していることにとても感動した」と称えた。一方、ステージでは会員やその家族らが、「かぎやで風」や「海ぬチンボーラー」「加那ヨー天川」など、多くの余興を披露するなどして賑わい、区民共々に受賞の喜びを分かち合っていた。 約八年にも及ぶ楚辺走ろう会の活動は「那覇マラソン」や「おきなわマラソン」、種々の「トリムマラソン」への参加をはじめ、地域にあっては「沖縄残波岬マスターズ駅伝大会」「読谷村クロスカントリー大会」や「区民運動会・駅伝大会」などの競技に出場して大会を盛り上げる一方、地域イベント(区のまつりや読谷まつり、村の植樹事業)などにも家族ぐみで積極的に協力。その功績は、村内外から高く評価されている。 今回、全国表彰に輝いたことで我謝会長は「受賞を励みに、今後も継続して会活動を進め、ボランティア活動やよりよい地域づくりと健康づくりに邁進し、近い将来、家族共々に海外遠征(ホノルルマラソンやボストンマラソン)に参加してみたい」と大きな抱負を語り、同時に「楚辺走ろう会では区内外を問わず、一人でも多くの人達が加入できるよう門戸を開いているので、健康づくりに関心のある方は是非入会してほしい」と呼び掛けている。 なお、同会には最高齢者の石川正吉さん(67歳)をはじめ、米国人の二家族も加入して楽しく汗を流している。 【楚辺走ろう会連絡先】 ■我謝孟正会長宅 ℡956-6317 村内の一人暮らし老人などを対象にした「老人ふれあいのつどい」(読谷村社会福祉協議会主催)が九月十二日午後、村総合福祉センターで開かれ、大勢の方々が楽しい触れ合いのひとときを過ごされた。 老人ふれあいのつどいは、高齢化社会が進む中で、一人暮らし老人や老人世帯、あるいは昼間に一人暮らしのお年寄りが年々増加していることから、お年寄りの方々を招待し、レクリエーションや子供たちとの触れ合いの中で、笑い・語り合いながら、今後も元気で頑張ってもらうよう激励することを目的に、毎年開かれている。 会場には多くのお年寄りの方々をはじめ、各字区長や村民生児童委員に調理ボランティア、読谷レククラブなど大勢の関係者らが参加する中、つどいは、読老連副会長・松田善康氏のユーモラスな司会で始められた。 参加したお年寄りの方々は読谷レククラブの指導で、身体いっぱいにレクリエーションに興ずる一方、なかゆくい(休憩)時間には、調理ボランティアの方々が真心込めて作ったおやつに舌鼓をうち、また、こばと幼稚園の園児らの可愛いエイサーの演技や、民謡ショー(山内昌春民謡グループ)などを心行くまで楽しんだ。
残波かりゆし学園(上地巌園長。園生二十七人)では九月十二日午後、隣接する特別養護老人ホーム・読谷の里を訪れ、お年寄の方々との交流を深めた。 これは、九月の知的障害者の福祉月間にちなみ、日頃の村民の方々の協力に感謝し、敬老の日を迎えたお年寄りの方々との交流を深めお互いの親睦と今後の励みになればと企画されたもの。 エイサーの勇ましいウッチャキ姿に身を包み、読谷の里を訪れた園生らは、お年寄りの方々に「こんにちは」と元気な声を掛けると共に、園生らが真心込めて仕上げたというコサージュ(ランの花)を一人一人にプレゼント。これにお年寄りの方々も「ありがとーねー」と応え、なかには感極まって涙するご老人も。 引き続き、パーランクーを打ち鳴らしてのエイサーが披露されると、どのお年寄りの顔にも笑顔が弾け、盛んに手拍子を送っていた。 また、この日の慰問交流では、お年寄りが大好物のサーターアンダギーも園から差し入れられ、喜ばれた。
コンピュータ技術を学ぼうと今年の三月下旬に南米ブラジルから来村した沖縄系二世の海外研修生・山内由美子さん(21歳)と山内早苗さん(20歳)の二人が、半年間の研修を無事に終え、この程帰国した。 一九九三年度から始まった「読谷村海外移住者子弟研修生受入事業」は、本村が南米各国及びその他の国々から、海外移住者子弟の研修生を受け入れ、技術等の習得及び村民との交流を通して社会の発展に寄与する人材を育成するとともに、国際交流思想の高揚並びにこれら伊集国との友好・親善に資することを目的に実施され、今年で三年目。研修生の受け入れには「協力会」(会長・当真嗣清助役)を発足させて事業を展開している。 第三期目の研修生として来村した山内由美子・早苗さんの二人は、雇用促進事業団・沖縄職業能力開発短期大学校(沖縄市池原在・具志幸昌校長)に入学してコンピュータ処理を学ぶ一方、宜野湾市長田在の異文化間コミュニケーションセンター(山内恵美子教師)に通い、一生懸命に日本語を勉強。さらに沖縄の文化・芸能を学ぼうと、二人とも新垣満子琉舞研究所(伊良皆在)で琉球舞踊を習ったのをはじめ、同研究所の発表会(十月十四日)では、大衆の前で堂々と「かぎやで風」を踊り、その成果を披露した。 また、学校が夏休みの期間中においては、役場業務の研修を目的に、由美子さんが厚生課に、早苗さんが住民課に配属され、住民サービスに努める一方、離島研修(宮古、八重山など)では、沖縄の美しい自然やエメラルドに輝く海に、喜びの表情を見せた。 協力会では十月二日午後、役場(議会控室)で「報告会」を催し、一生懸命に励んできた二人の努力を称え、祝福した。 二人は、十月十五日に父母の故郷・沖縄の地を発ち、由美子さんは東京に働きに来ている父母の元へ、また、早苗さんは名古屋に住んでいる兄を訪ねた後、想い出を胸に、それぞれにブラジルへと帰国する。 【研修報告】 なお、本稿では二人の沖縄での研修の様子を「研修報告」という形で書いてもらいましたので紹介します。彼女らが書いた原稿を清書【漢字に変換】してあります。(次ページ) 私たちの生活を豊かで楽しいものにするには政治を立派なものにしなければなりません。そして、きれいな政治が行われるには、明るい選挙が行われなければなりません。そこで読谷村選挙管理委員会並びに読谷村明るい選挙推進協議会では、心身共に清く正しい村内の各小・中学校の児童生徒の皆さんを対象に、明るい選挙を催し進める上で役立つ、独創的で印象深いイメージのポスターを募集しました。その結果、古堅小学校から四点、古堅中学校から四点の作品が寄せられ、審査の結果、応募された全作品が、趣旨に賛同した素晴らしい作品と認められて入選し、県へ応募することになりました。 【小学校の部入選】 ・横井洋子(古堅小六年) ・大城美咲(古堅小六年) ・野中弥生(古堅小六年) ・高木直子(古堅小六年) 【中学校の部入選】 ・岳原遥香(古堅中一年) ・渡慶次直人(古堅中一年) ・西原航(古堅中一年) ・照屋翔子(古堅中一年)
今日はお忙しい中、私たちのために集まっていただきありがとうございます。 皆様のおかげで無事に研修を終わることができました。私は将来、コンピューターの仕事がしたいと思っていました。両親の故郷でコンピューター、日本語、琉球舞踊と、たくさんのことを勉強することが出来ましたが、三月に沖縄に来たときは、不安でいっぱいでした。無事に学校まで行くことが出来るかな、先生は厳しくないかな、ちゃんと覚えることが出来るか毎日心配でした。だけど、皆様のおかげで今では日本語も覚えました。少しですが漢字も書けます。コンピューターも使えるようになりました。沖縄に来ることができて本当に幸せです。 ブラジルに帰ったら、大学に入学してコンピューターの勉強を続けていきたいと思っています。沖縄に来る機会を下さった山内村長をはじめ、役所の皆さん、一生懸命に教えていただいた学校の先生方、本当にありがとうございました、一生忘れることができない大切な思い出が出来ました。 山内早苗 今日はありがとうございます。 私はブラジル生まれです。ブラジルはとても大きな国です。地図の上では小さい沖縄ですが、実際に来て見てびっくりしました。 珊瑚礁のエメラルドと美しい海に囲まれ、緑の亜熱帯植物の風景もたいへんに美しく、夜空いっぱいに輝く星空は、まるで宇宙に包まれているみたいでromanticな気分になりますね。 沖縄の豊かな自然のどこを見ても調和が取れていて、素晴らしさに感動しました。皆様もたいへん親切で、日本人の血をひきながら日本語をくに勉強してこなかったことを大変恥ずかしく、悔やまれてなりません。その私たちを広い心で教え導いて下さってほんとにありがとうございました。短い期間でしたが、いろんなことを学び、体験させていただき、私の人生の中で大変心に残る、意義深い半年でした。沖縄は心の広い素晴らしい島でした。 私はブラジルで、皆様に色々と教わったことを心に刻み、一生懸命頑張っていきたいと思っています。 村長さん、そしてお世話になった役場の皆さん、大変ありがとうございました。 山内由美子 読谷村国際交友会・IFAY(代表・ロジャーAペイジ氏、仲松庸次氏)では、毎月第三土曜日の午後七時三十分から村中央公民館においてサークル活動を行っています。 IFAYは、読谷村に住む人のサークルですが、村以外の方々も準会員として参加でき、会員にはアメリカ、フィリピン、中国などの外国出身の人とで作っているサークルで、会費や財政的義務はなく、自発的なカンパで運営されています。 活動の目的には、外国出身の人が日本の文化を理解し、また、日本人が外国の文化・習慣を学びながら、みんなで楽しくゲームをしたり歌を歌ったりして、遊びながら国際的な交友を深めると同時に、一緒に働きながら地域に貢献して住み良い読谷村を築こうと、一九九〇年二月に発足しています。 IFAYでは、サークル会員を募集しています。興味のある方は次にご連絡下さい。 【連絡先】 ■ロジャーAペイジ氏 ℡956-7465 ■仲松庸次氏 ℡958-0374
「文化」によって潤いのある人生を演出し、人にやさしい「環境」を創造する作業をより強力に推進しようと、本村では去る七月二日に「読谷村文化協会」(岳原宜正会長)が設立され、村民が主人公となる夢とロマンに満ちた壮大な舞台の創出と、輝かしい未来へのメッセージを伝えるべく、文化協会には十九ジャンルに及ぶ部会が組織され、千人余の人々が加入した。 そのような中、郷土の伝統芸能や民俗芸能などを一堂に集め、文化遺産である座喜味城の価値を村民で見直そうと「城フェスティバル・in座喜味'95」(読谷村教育委員会・文化振興課主催、読谷村文化協会後援)が城を舞台に展開され、多彩なプログラムを披露。今回開かれた城フェスティバルでは、文化協会しまうた部会(大嶺正廣部会長)が主催する「城の風わしま読谷山」(九月二十七日)のイベントを皮切りに幕を開け、三十日には『第四回ユンタンザムラアシビ」と併せ、村立美術館においては県内画家展望展パートⅡ・「沖縄女流美術展』がオープン。十月一日に『第五回棒交流会』、『魅惑の映画音楽』(同二日)の公演が行われ、訪れた延べ四千人の観衆が芸能・芸術の魅力を堪能した。 読谷村文化協会「しまうた部会」が取り組んだ第一弾の公演には琉球舞踊部会(新垣満子部会長)のメンバーが友情出演。ステージでは島太鼓の鮮やかな太鼓演奏を皮切りに、数々の民謡(島唄)や華やかな琉球舞踊が披露され、城内を埋め尽くした約千五百 ムラアシビは琉舞「むんじゅるー」(座喜味千枝子琉舞道場)でオープニング。引き続き「島の響」(創作舞踊あやめの会・当山利恵子教室)、「空手・サイ・ヌンチャクの舞」(古謝弘子琉舞研究所)の後、「四季口説」(楚辺)や「旅口説」(高志保)「京太郎」(長浜)「しょんどう」(瀬名波)「高平良万才」(波平)の五字の芸能が繰り広げられた。 特に、今回演じられた長浜の民俗芸能「京太郎」は約十三年ぶりに復活。ステージでは、75~80歳の役者が演じる滑稽な台詞に、城内は拍手と爆笑の渦に包まれ賑わった。
第五回目の棒交流会には、金武町字並里や南風原町字津嘉山、名護市字久志、在沖与那国郷友棒愛好カンチャティ会の棒が招かれ、棒術や棒踊りを披露。本村の棒術では波平子ども会の棒や座喜味子ども会の棒、波平、宇座、座喜味棒が繰り広げられた。城内にはボラや太鼓、鐘の音が鳴り響く中、勇ましいヤグイ(掛け声)とともに棒が宙に舞い、躍動感に満ちた迫力ある演技が人々の目を奪い、また、渡慶次区伝統の「獅子舞」が観衆を喜ばせた。 古城の宵・魅惑の映画音楽は当初九月二十九日に開催予定であったが、天候不順に見舞われ十月二日に順延。城フェスティバルの最終日を飾ることとなった。 城には大勢の観衆が詰め掛ける中、ステージはDON浦崎とスカイライナーズの演奏と華麗なジャズバレエ(環バレエアートスタジオ)の踊りでスタート。引き続きヴォーカルの知花章氏(瀬名波区出身)が、ロマンティックな映画音楽の数々(主題歌十曲)を熱唱。星空の下に開かれた「魅惑の映画音楽」は、知花氏のヴォーカルやバンド演奏と共に、ジャズダンスの華麗な舞いは訪れた人々を洋舞.洋楽の世界へと誘い、映画音楽の魅力をたっぷりに伝えていた。プログラム終了後にも「アンコール」の声が飛び交い、城は、人々の熱気に包まれ賑わった。
九十一歳の私にとって、戦前・戦中・戦後にかけての字の歴史を振り返って話すのは記憶がおぼろげなところもあり、その点については、読者からのご理解ご協力の程をお願いし、お話をしていきたいと思います。 さて、私が第十九代の楚辺区区長になったのは、確か一九四四年の九月の頃だったと思います。それは当時十八代の区長をしていましたアガンチ小(屋号)の比嘉牛一氏が宮崎の方に疎開して行き、区長の席が空席となりました。その時は戦争が悪化しており、字にも友軍が密集しており、騒がしくなっておりました。そこで、早めに区長を選出するようにと区民からも苦情と要望が出され、緊急に戸主会が開かれ、補佐役にはヌンドチの大湾清ノ助氏が区長代理として当選し、併せて私は第十九代目の区長に選出されました。しかし、区長代理の大湾清ノ助氏は就任して問もなく兵隊に徴用され、区長の補佐役としては選任されたものの、十分補佐してもらえず、大変困りました。 いよいよ戦争もますます激しくなってきており、陣地からの空襲警報も多くなりました。空襲警報が発令されると、区民はそれぞれ指定された防空壕に隠れました。暗川には約四百名、ウカーには約三百名が、また、今の慰霊の塔の下の壕には約百名の区民が艦砲射撃や空襲から身を守るため避難をしておりました。尚、当時は五番組までに分けられ、避難場所も指定されておりました。戦火の広がりと共に、航空母艦が北谷の砂辺の浜に押しよせ、艦砲射撃が激しくなった時、私は現在の赤犬子宮に構築されていた高射砲陣地に呼ばれ、指揮官の村上少佐から「こちらに居ては危険でもあり、戦の邪魔にもなるので直ちに移動するように!」と命じられました。そこで私は各避難壕を回り、「恩納山でも谷茶の山にでも緊急に避難するように」と話をしました。当時は楚辺区に残っているのは年寄りと子供や女、病人の人しかいなく、健康な大人の男は兵隊に召集されていました。避難命令後は皆、着のみ着のままで歩いて避難をして行きました。尚、私と泉巡査が最後まで残り、その後私も北部を目指して避難をしました。 村が指定した避難場所の国頭村奥間山で、楚辺区のほとんどの区民が避難生活をしておりました。山での生活は、ある間は食べて、食物がなくなると馬を殺して食べました。それも尽きると、ソテツとかずらの葉を海水に入れて料理をしました。また、防空壕では、泣く子供がいると友軍から外に出され、危険な目にあっておりました。道のそばにはウジが出た死体もいっぱいありました。昼は敵の兵隊に見つかるので、夜しか行動が出来ず、たまたまその頃が雨期のシーズンだったこともあり、多くの避難民がハブに噛まれて死亡致しました。そのような生活は三ヵ月ぐらい続き、その後終戦を迎え、下山を致しました。 読谷村の警防団長の比嘉憲四郎氏から「あなたは区長だから、皆が下山してから最後に下山するように」と云われ、私も家族と共に最後に下山しました。下山した後、国頭村桃原には一ケ年ぐらいおり、その後、石川市に移動しました。石川市にはほとんどの楚辺区の人が住んでおり、住居はカバ屋ーでありました。その時に、カマーキナーグチの池原繁栄氏とイーナーカの伊波俊昭氏(元村長)、クシマチダの池原昌徳氏(元村長)、その他楚辺区の有力者が集まり、今後の楚辺区の発展について協議を致しました。その結果、生活の比較的に安定していた池原蒲吉氏(楚辺売店)を楚辺区の代表者に決定致しました。 石川市には約三ケ年居留して、その後旧楚辺の集落に移動しました。そして、旧集落で戸主会を開き、ウシーミヤー小の宮城善吉氏が楚辺区の代表者として選出されました。その後、区長と云う名称の楚辺区長にメーヒジャの宮城昌明氏が選出され、ようやく楚辺と云う字(自治会組織)が復活されました。 平成七年九月十三日口述 記録 上地栄