【見出し】夢とロマンのある農業をめざして「散水式」を挙行 長浜川土地改良区
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農業所得の向上、農産物の生産拡大を図ると同時に、夢とロマンのある農業を展開しよう--と、本村では昭和四十九年十一月に農業用水資源の開発地域として「長浜ダムの建設」(農業用ダム)を申請。そして、二十年余の歳月を経て、待望の長浜ダムが完成した。 長浜ダム概要 貯水量 160万t 面積14.7ha 受益面積 280ha 受益戸数 1,432戸 長浜ダム本体の完成(平成六年度)に伴い、村では十二月十五日午後、西部達道土地改良区内(儀間区)で「散水式」の式典を、沖縄残波岬ロイヤルホテルで盛大に「祝賀会」を挙行した。 改良区内で行われた式典では、国・県からの来賓の方々や村内の多くの関係者らが出席する中、式辞で山内村長は「二十年の歳月を経て長浜ダムが完成し、散水式の式典が開催されることは感慨深く喜びでいっぱい。県や国の関係者に深甚なる敬意を表し、感謝します」と語った上で、「第一次産業(農業)が豊かになることを夢みて、県内でも屈指の農業ダムの建設に向けて頑張ってきた。この地を新しい亜熱帯農業の拠点にし、農家が豊かで幸せになっていただくよう今後も努力していきたい。かつてのボーロ飛行場が、このような生産の場に変わってこれ以上の喜びはなく、この大地に黄金の花を咲かせてほしい」と式辞を述べた。 式典では引き続き、当山弘建設経済部長による「事業経過報告」が行われた後、沖縄総合事務局農林水産部や県農林水産部、沖縄県土地改良事業団体連合会、儀保輝和村議会議長らの祝辞を受け、受益者を代表して安田慶文長浜川土地改良区理事長が「本当に長浜ダムができるのかと疑問であったが、現実にこのように完成できたのは行政の涙ぐましい努力のお陰。これは本村の農業に一大革命を起こすもので感激いっぱい。明るい展望のもとに、菊栽培などの生産性の高い農業に転換する若い農家も多くなっており、農業を産業、ビジネスとして考え、魅力ある農業を目指していきたい」とお礼を述べた。 その後、関係者らによる「散水の儀」と「くす玉割り」が並行して行われ、村長らが灌水用のバブルを開くと、改良区内に設置されたスプリングクーラーから一斉に水が放出され、水しぶきがいきおいよく空に舞った。 また、会場を移して催された祝賀会では、伊波栄徳県議会議員や知花俊雄JAゆいな読谷支所長が祝辞を述べ、ステージではJAゆいな読谷支所婦人部や渡慶次獅子舞クラブ、長浜、高志保、波平の各婦人会らが琉舞などの余興を披露し、祝宴に花を添えた。 本村の農地土壌条件が保水力に乏しく干ばつの害を受けやすい特性をもつ島尻マージ地帯であることから、その基本的条件である農業用水の確保が大きな課題であった。 このことから、本村では「雨待ち農業」からの脱却をめざして「長浜ダム」の建設を申請。建設に向けては調査開始から用地交渉や技術的問題を克服しつつ、二十年という歳月をかけ、沖縄本島では最大の農業用ダムとして完成。 ダムの建設には78億円の巨費が投じられている。 長浜ダムに関連した潅漑排水事業も各地区においての事業採択がされ、現在六地区(西部達道、渡慶次、浜屋、宇座、萩川、波平)で整備が行われている。 また、潅漑排水事業でできる全ての施設は、受益農家の共有財産として長浜川土地改良区によって維持管理・運営されることになる。 ※長浜ダム関連事業地区一覧表
琉球大学で、同工学部・電気電子光学科助手を務める金城繁徳さん(29歳・宇座区出身)が、見事に博士(工学)の学位に輝きました。 博士号の学位に輝いた金城さんは、読谷高校を卒業後、琉球大学に進学。新潟県の長岡技術科学大学・大学院工学 科(電子機器工学専攻)での修士課程を経て単位を修得し、学位論文の審査で、この程(平成七年九月二十日)博士号を取得したもの。 十二月二十六日午前、博士号取得報告のため、金城さんが父親・繁信氏と連れ立って山内村長を表敬訪問。席上、山内村長は「いろんな分野で読谷の子ども達が頑張っている。博士号取得の報告は嬉しい限りで、読谷村民の大きな誇りだ」と称えた。これに、金城さんは「通信分野に幅を広げた研究をし、特にマルチメディアの新しい技術を開発していきたい」と抱負を語るとともに、「自分の研究・開発した商品が、一般の方々に使われるようになれば嬉しいし、それが夢でもある。コンピュータ通信の画像や音声には改良の余地があり、目標は高品質のマルチメディアの開発です」と語った。 本村では「読谷村国民健康保険・はり・きゅう・あんま・マッサージ・指圧・施術指定所」六カ所を指定していますが、この程、七番目の施術所が指定を受けました。 新たに指定された施術所は ▼好光鍼灸施術所 施術者:好光 章氏 (大木二九〇番地の一) ℡957・1198 で十二月十二日、村から指定書が交付されました。 読谷村普及事業連絡協議会(島袋和枝会長)では去る十二月十九日午後、農村婦人の家にて「料理セミナー」を開き、鶏肉のおいしい食べ方や栄養についての料理講習を実施した。 これは、日頃の生活改善グループの定例会(昼食会・忘年会)を兼ねて行われたもので、この日の講習にはローストチキン、鶏肉のキャベツ包み、鶏肉のクリーム煮、蒸し鶏の香味ソースかけ、などのメニューが準備され、会員らが手際よく料理。料理の完成後は全員が和やかにおいしい鶏肉料理に舌鼓をうっていた。
土地改良事業などの豊かな村づくり活動が高く評価され、渡具知(大城健成区長)が、「農林水産大臣賞」(十一月十九日)の表彰に輝きました。 同表彰は、地域ぐるみの連帯感やコミュニティー機能の強化を図ることを狙いに、農林水産省と日本農林漁業振興会が実施している農林水産祭表彰で、渡具知区は農産物や園芸、畜産など七部門のうち村づくり部門での表彰。 平成七年度の村づくり部門は全国四十事例の推薦の中から最優良事例一点、準最優良事例二点、優良事例(農林水産大臣賞)十七点が選ばれ、県内からは渡具知区が農林水産大臣賞を受賞した。 同区は、太平洋戦争での上陸地点となり、米軍基地として接収されたが、復帰の翌年(一九七三年九月十五日)に開放されて以来、土地改良事業を導入して農林漁業の振興を基盤とした豊かなむら、づくりを目指し、活発な活動を展開。メロン栽培では「ゆんたんざメロン」の銘柄を支える産地として成長。また、集落行事や農業生産部会など各方面の活動も活発に行っていることなどが評価された。 表彰状の伝達式は十一月二十八日、沖縄総合事務局で行われ、大城区長が栄えある表彰状を受賞した。 農林水産大臣賞の受賞で、渡具知区では十二月十日夕、区民や関係者らを招き、盛大に「農林水産大臣賞受賞祝賀会」を開いた。 祝賀会では大城区長が、「昭和四十八年九月、この地が軍用地から返還されたのに伴い新しい部落づくりに向けて生活基盤、農業生産基盤の整備、集会施設の建設に区民が一致協力して取り組んできた。戦後五十周年にして渡具知集落が豊かなむらづくり部門での受賞を誇りに思う。今回の受賞を励みに、一致協力して住み良い地域づくりに努めて参ります」とあいさつ。功労者表彰に引き続き、山内村長や儀保村議会議長らが祝辞を述べ、式典を終了。第二部では子ども会による「かぎやで風」や、婦人会による「前ヌ浜」など多くの余興が披露され、区民共々に受賞の喜びを分かち合った。 渡具知区(大城健成区長)では、終戦五十年を期して慰霊之碑の建立を進めてきたが、この程、同碑が完成したことから、十二月二十八日午後、区民や関係者ら多数が参列する中、「慰霊之碑除幕式」を行った。 除幕式では、戦没者を弔う供養と焼香が行われた後、大城区長(戦後五十年事業実行委員長)や大湾稔氏(慰霊之碑建設委員長)が「二度と戦争が起こらないように、恒久平和を願おう」と、区民を代表して追悼の辞を述べた。 慰霊之碑の建立に当たっては、区の有志らで建設実行委員会を発足させ、渡具知一二四番地の六(公民館グラウンドの南前方)に建立。 碑は高さ三・五メートル、長さ五・七メートルで、建設総工事費は字予算で四百十九万円をかけて建立された。
厚生大臣の委嘱(任期は三年)を受けて生活困難者などからの相談に応え、その原因を精査し、指導・助言などの職務を遂行している本村の民生児童委員七名の方々が、十二月一日付けで新規に委嘱を受けました。(改選五名、増員二名) これに伴い、本村の民生児童委員は主任児童委員三名、委員四十二名になりました。 福祉のネットワークづくりに、ますますのご活躍をお願い致します。 【新規の民生児童委員】 上運天先栄(楚辺一一一四) 與那覇吉秋(波平一六〇九ノニ) 比嘉千江(古堅八六七ノ五) 山内光子(上地二五〇) 金子ユリ子(喜名二三一九) 浜川八重子(高志保一四二〇ノ一) 宮平裕子(伊良皆一八九ノ五) 景勝の地・残波岬をユリの里にしよう一と読谷村心豊かなふるさとづくり推進協議会(山内徳信会長=村長)では十二月二日、残波岬いこいの広場の道路沿いやグラウンドの傾斜面にテッポウユリの植え付け作業を行った。 今回準備されたユリの球根は約一万五千個で、第七回目を数えるテッポウユリの植え付け作業には、老人会をはじめ婦人会や青年会、区長会、議会議員、村内の経済団体などから約三百人が参加し、次々に穴を掘り、ユリの球根を植え付けた。作業を前に行われた説明会では山内村長が冒頭「残波にテッポウユリを植える会に名称を改めましょうか」と提唱した上で、「村を美しくきれいにするために、皆で花と緑いっぱい運動を展開し心豊かな読谷村を築いていこう」と呼び掛けた。 十二月十三日、読谷協同産業株式会社(安田慶義社長)の職員ら十人が、県立「読谷の里」で奉仕作業を行った。 これは、地域にある会社として地域の福祉施設に奉仕しようと、今年(平成七年)から取り組まれたもの。 同社は、保安警備業務をはじめ、清掃や衛生、植栽管理業務などを専門とする会社で職員は正社員やパート職員を含めて七十人。この日の作業には草刈り機や除草機を駆使しながら、同施設のグラウンドや周辺の雑草雑木を、きれいに刈りとっていた。 作業に当たった造園部の大城隆部長は「地域に役立つ奉仕作業をしようと考えたところ、清掃業務を専門にする会社として福祉施設などの清掃が良いだろうと実施した。今後も引き続き、地域への奉仕活動をしていきたい」と語った。
「第四十七回人権週間」(十二月四日~十日)に寄せ、法務省では子供たちに草花を育てることを通して思いやりの心、優しい心を養い、人権に対する理解を深めてもらおうと、去る十月二十日に古堅小学校(大城正憲校長)で「人権の花」の植え付け作業を行った。 そして、児童生徒らが丹精込めて育ててきセ人権の花がこの程見事に開花したことから、同校では十二月五日、村中央公民館において人権の花を展示し公開セレモニーを実施した。 セレモニーでは、石川勝夫那覇地方法務局局長が「人権思想に理解と協力をしていただき感謝します」とあいさつし、伊波清安教育長は「花を全ての美しい心に見立てて大事に育て、美しい心を磨いていこう」と語り、大城校長は「誰一人として花を摘み取る子供たちがいなくなった。これこそまさに人権の花を植え付けた成果だ。素晴らしい思いやりの心が育ったと子供たちを褒めてあげた」と称え、また、児童生徒代表の松田輝彦君は「花は一日でも世話をしないと死んでしまうので、世話をするのは大変だったけど花が咲いた時はとても嬉しかった」と感想を話した。 公民館ホールには、赤や紫などの色鮮やかに咲いたサルビアやペチュニアなどの花をはじめ、児童らが描いた花の絵や作文、活動スナップ写真が展示され、観賞した人々に感銘を与えていた。 古堅小六年 松田美香 人はなぜ「人権の花」というのを植えるのだろう…それは、花を大切にし、人の心も花と同じように大切にすることだと思う。 私のおばさんの家の近くに身体障害者のいる病院がある。 私はこの前の日曜日は、その病院におばさんと行った。そこは保育園や幼稚園みたいなところで、そこの病院は体験学習ができる。私は、赤ちゃんみたいなおじいちゃんとおばあちゃんの面倒を一日だけ見た。 まず最初に私は「こんにちは、お友達になりましょう」と言葉をかけ、ゆっくり大きな声でいった。そしたら、通じたのか、「はい、こちらこそ」と小さな声でいった。私は、最初恐くて入りたくもなかったのに、いつの間にか絵本を読んで聞かせたり、庭でボール遊びをしたりして、いっしょに遊んでいた。そして、あっという間に時間が過ぎて、みんなお昼寝の時間がきた。 みんなが寝たころ、体験学習をしている人で、子供、大人にわかれて院長先生の「人権」という題名の話しを聞いた。 「ここにいる人たち(身体障害者の人)は、みんなと同じ人なんだよ」という言葉で話は始まった。そして、いろいろなことを話して、最後に「人権とは、人が生まれたときからもっている自由と平等、生存などの権利」ということで話は終わった。 夕方になって帰るときがきた。私は「さようなら」とゆっくりいった。そしたら、おばあちゃんたちは泣きながら「どうもありがとう」といった。帰りにおばさんが「めんどう見るってどうだった」と聞いた。私は「とってもつかれたー」といった。たいへんだったけど、いい体験になったなーと思った。 心の花を育てるということは、いじわるな心を捨てて、やさしい心に花を咲かせるんだと、私は思います。 もし、学校やいろんなところで困っている人がいたら、私はしらんふりをしないで、助けてあげたいと思う。そして、困っているいる人がいたら、困っている人の役に立ちたいと、私は思う。 昨年、「人権の花」の指定校に選ばれ、人権の花を通して古堅小学校の児童生徒らが書いた作文を、本号から三月号、四月号で紹介していきたいと思います。
十二月十五日~十七日の三日間、「第十五回読谷山焼陶器市」(読谷山窯・北窯の主催)が、同広場で催された。 陶器市は、暮らしの中に焼き物をと、読谷山窯の金城明光、玉元輝政、山田真萬、大嶺實清や北窯の宮城正享、松田米司、松田共司、典那原正守の八氏が、やちむんの里で毎年開いている恒例市。 今回の陶器市は、初日と三日目に雨がちらつくあいにくの天候に見舞われたが、それでも村内外から訪れた大勢のやちむんファンで賑わった。 各工房前には、皿やマカイ、コーヒーカップセットなどの日用品をはじめ、壷や花瓶などの装飾用品など数万点の陶器類が並べられ、市価の二、三割り引きで販売される陶器類に、訪れた人々はお目当ての品々を買い求めて喜び、袋いっぱいの陶器を手にしたある主婦は「これで、新年を新しい器で迎えられます」と話し、嬉しそうに家路に向かっていた。 中農定時制課程は四月から大きく変わり、単位制による定時制高校に改変することになりました。 単位制とは、無学年制で卒業に必要な単位(80単位)を習得すれば、三カ年で卒業できる制度です。 単位制は、いつでも・どこでも・だれでも学ぶことのできる新しく生まれ変わった制度です。 【募集生】 ■特別募集生(高校で学ぶ機会を作れなかった方) ■転編入生(高校を中途であきらめた方) ■科目復修生(生涯学習に趣味を生かしたい方) 【単位制の特徴】 ①学校は月~金曜日の五日制です。(五時半より給食、六時~九時半授業) ②卒業に必要な単位(80単位)を習得すれば、三カ年で卒業できます。 ③無学年制で自分のペースで学ぶことができます。 ④他の学校で習得した単位も認められます。 ⑤公的な資格も単位に認められます。 ⑥働いている職業の実務が単位に認められます。 ⑦大検合格科目の単位が認められます。 ⑧定時制と通信制の併修ができます。 ⑨二学期制で四月と十月に始業し、三月と九月に卒業します。 【志願手続き等】 ▼願書受付 ・平成8年2月13日~15日 ※但し15日は十二時まで ▼入学選抜 ・平成8年3月15日午後2時 (作文・面接・中学校の調査書に基づいて行なう) ▼合格発表 ・平成8年3月21日 【問い合わせ先】 ■中部農林高等学校定時制 ℡973-3578 '96おきなわマラソン 2月18日(日)スタート 第108期 沖縄産業開発青年隊員を募集 【募集人員】100名 【募集資格】 (1)義務教育を終了した満25歳までの独身男性 (2)心身健全で共同生活を守りうる者 【訓練期間】平成8年4月2日~平成8年9月20日 【必要経費】(総額約216,000) 【教育訓練の内容】 (1)共同生活をとおした規律訓練 (2)機械技術訓練 【募集締切】平成8年2月15日 【申込方法と申込先】 ・「志願書」と「健康診断書」を添えて申し込みます。 〒905-12 東村字平良380-1 財団法人 沖縄産業開発青年協会 ℡0980-43-2118 ℡0920-43-2285
読谷村婦人会(比嘉信子会長)主催の「第八回演芸のつどい」が十一月二十六日、村総合福祉センターで昼・夜の二部にわたって開かれ、会場は昼・夜の二回とも大勢の観衆が訪れ、盛会を極めた。 婦人演芸のつどいは、郷土の伝統芸能の良さを認識し、婦人の持つ特技を発表する場を設け、会員の親睦と団結、明日への活力を培うこと等を目的に行われているもの。 それだけに、婦人会員の意気込みも素晴らしく、髪型から衣装、小道具も本格的そのもの。華やかな琉舞衣装やチャイナドレスなどに身を包み、艶やかに舞う姿は優雅で華麗。演技も多彩で、プログラムは昼・夜含めて二十演目にも及んだ。 また、夜の部に友情出演したJAゆいな農協婦人部の喜劇「二人ぬヤマー」はプロ顔負けの演技力を発揮。芝居のあまりの滑稽さに、訪れた観衆は終始爆笑の連続。婦人らの素晴らしい演技の数々に、会場は拍手の嵐に包まれていた。 なお、婦人会ではこの日の収益金の一部五万円を、十二月十二日午前に村社会福祉協議会に託しました。 読谷村民が幾百年にわたり創りあげてきた文化を掘り起こし、その歴史を明らかにすることによって、これからの読谷村が新しい時代に向けてその展望を切り拓くため、本村では『読谷村史』全13巻(通史編1巻、資料編12巻)を発刊及び編集中であります。 村史資料編は、団体誌や個人誌づくりに、また子々孫々に祖先の生きざまを伝える好資料としてご活用いただけるものと思います。 同『読谷村史』の購入希望者は、読谷村役場村史編集室か読谷村歴史民俗資料館で購入いただくか、若しくは最寄りの各字公民館でご注文いただきますようお知らせいたします。 ■読谷村役場村史編集室 ℡956・2201(内線275) 読谷村史 第二巻「戦前新聞集成上・下」 販売価格・三〇〇〇円 第三巻「文献に見る読谷山」 販売価格・二〇〇〇円 第四巻「読谷の民俗上・下」 販売価格・三〇〇〇円 読谷村関係資料 ▼比謝旺友竹亭(五〇〇円) ▼読谷山の由来記(六〇〇円) ▼官報にみる読谷山(六〇〇円)
郷土の伝統芸能の良さを再確認し、会員各自の持つ特技を発表しようと十二月二十日午後、「第十一回読谷村老人クラブ芸能大会」(読老連主催)が村総合福祉センターで開かれた。 これは、老人クラブ活動の一環である古典舞踊及び古典音楽クラブの発表の場を設けるとともに、会員相互の親睦と健康保持・増進を目的に毎年開催されているもので、老人会員にとっては老人運動会に匹敵する程に楽しい行事。 それだけに、会場は満員の会員らで埋め尽くされ、熱気に包まれた。 大会は、全員で「老人クラブの歌」を斉唱した後に開幕。次いで主催者を代表してあいさつした山内真永会長は「今日や芸能大会んかいめんそーちにへーで一びる。皆なし笑い福なち、楽しみしみーそーり」と語り、訪れた当真嗣清助役や儀保輝和村議会議長は、激励の言葉を述べた。 芸能発表には、各字老人クラブ数を上回る二十六演目にも及ぶプログラムが準備され、古典音楽演奏でステージが幕を開いた。 舞台には、容姿端麗・華やかな琉舞衣装を身にまとった出演者の方々が、次々に素晴らしい演技を披露。また演技の合間毎には、松田善康副会長のユーモラスな名司会が会場を笑いの渦に包み込み、大勢の会員らも大喜び。老人会員らが舞う卓越した演技は、訪れた人々を楽しませ、伝統芸能の魅力をたっぷりに伝えていた。 また大会では、同老人クラブが十一月二十三日に開いた「歳末助け合いチャリティー・ゲートボール大会」の収益金二十二万八千七百円が社会福祉協議会に寄せられ、寄付金は山内会長から社協の新垣喜一常務理事に手渡された。 歌のクリスマスプレゼントですと十二月十八日午後、山内昌春民謡グループが特別養護老人ホーム「読谷の里」を訪ね、お年寄りらに歌や琉舞をプレゼントし、喜ばれた。 この日の訪問には、同民謡グループのメンバー全員が仕事を休んでのボランティア活動。代表の山内氏(儀間区出身)は「読谷に住んで地元の皆さんのお役に立ち、歌でお年寄りらを慰みをしたいという気持ちで訪問した。お役に立つことならどこにでもボランティアとして奉仕したい」と語った。 会場には、車椅子の人をはじめ多くのお年寄りらが集う中、ステージで山内さんのユーモラスな語り口や島唄の数々、「花傘」や「加那ヨー」などの華やかな琉舞が披露されると、お年寄りらも舞台と一体となって身を振り、手拍子を送り、心行くまで民謡ショーを楽しんだ。
一月号の長田に続いて戦後米軍基地として接収され戦後も古里に帰れない親志について語っていただいた。 親志の集落形成は明治の廃藩置県後のこと。県内各地から入植した人々は相互扶助を生活の柱とした共同体を築き上げてきていた。 土地がやせているうえ、肥料もろくになかったため農業で生計を立てることができなかった。広大な読谷山岳(村有地)を背景として林業で集落全体の生計をまかなっていた。住宅の屋根を葺く竹ガヤの注文が入ると全員で山から切り出し、屋根の骨格材の注文があると山に入る。そしてその代金が支払われるとみんなでソーミンイリチャーを作り酒を酌み交わす場を設けて分け合った。時期になればシークァーサーや山桃を収穫して売りに出た。竹ガヤなどの注文がなく苦しい頃には、男たちは日雇いの仕事に出、残った者は薪を取っては近くの集落に出かけデンプンカスと交換して「ンムカシメー」を作って食べ物を確保した。子ども達も喜名の分教場や本校(読谷山尋常高等小学校)から帰ると山羊の草刈をしたり子守をしたり、キビ畑の手入れを手伝ったりしていた。これが昭和初期から戦前までの親志の大まかな生活の様子である。 村有地である山の管理のため、役場からは山守りの係が二名配置されていて昼中は親志の人々と一緒に山廻りをしていた。樹木一本も貴重な時代、そうした監視の目を逃れて泥棒もけっこういた。大がかりなものを除いて、そうしなければ生活の出来ない人々であったため、厳しく取り締まるといった感じではなかったと思う。 小さい集落ながら正月の子ども遊び、二月二日の御願立て、三月の清明祭、四月のアブシバレー、五月の「四日の日」、六月の綱ひき、七月のエイサー、八月「一五夜」、九月九日の「上帝君祭り」など集落が一体となった年中行事も 連綿と受け継がれていた。特に「四日の日」は楚辺の兼久浜での馬ハラセー(競馬)を見に行くのが子どもの頃の一番の楽しみであったし、エイサーは全戸全員参加が義務付けられていて、四〇歳までの男は当り前であった。「御願立て」「土帝君祭り」などの時には共同で豚をつぶし、ご馳走を作ってみんなで祭りを祝った。誰かが家を作るときには、とにかくみんなが共同で作業を手伝い、一日では大方形は出来上がったし、畑を耕すのも共同作業だった。 貧しいながらも相互扶助の精神が生きた生活をしていた親志にも戦争の荒波は確実にやってきた。日本軍の電波探知機が設置された為「山部隊」と「球部隊」が親志の集落に駐屯することになった。家は兵舎に取られ、男たちは徴兵で取られ、女、子ども、老人だけが残った。昼の仕事もままならず、夜とて落ち着いて寝ることもできない。 こんなこともあった。ある日大きな鍋に芋をたくさん炊いていたら、兵隊がやってきて全部食べ尽くしてしまった。その家族は翌日から食べ物がなくなってしまった。 戦場をさまよい九死に一生を得て帰って来ても、昔の生活は戻ってこない。家族や多くの親戚、友人も失った。戦後五〇年余、いま振り返ると一番悲しいのは、あの頃の助け合いや相互扶助の精神がなくなってしまったことだと思う。今は葬式ぐらいかな、みんなで手伝って一緒にやっているのは。とにかく集落が一致し、愛情を尽くしてユイマールでいろんなことをやった。いまはそうしたものがなくなった。 =記念事業特別取材班= 現在でも、地域の絆を大切にしようとコミュニティの拠点としての公民館建設をめざし、その資金作り等に区民一体となって取り組んでいる。