
題字「よみたん」には、紅イモのカラーを採用しています。
主な目次 世界の読谷人が故郷で集う………2 住民税が変わります………………8 よみたん見聞録……………………10 ゆんたんざ info……………………18
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主な目次 世界の読谷人が故郷で集う………2 住民税が変わります………………8 よみたん見聞録……………………10 ゆんたんざ info……………………18
海を越え、世代を超えて、世界のユンタンザンチュが故郷の地に集いました。育った環境は違うけど、同じチムグクルを持つ仲間たち。 新しい土地を求め、世界の国々の架け橋となり、故郷に様々な貢献を果たしてきた彼らの足跡をたどります。 移民のはじまり 沖縄県で最初の移民は、1899年(明治39)、『移民の父』と称される当山久三によってハワイへ送り出されました。読谷村では1904年(明治37)、メキシコへ向かった冨着官守(大湾)と池原守八(古堅)が初めての移民となりました。その後、ハワイをはじめ、ニューカレドニア、フィリピン、南洋諸島、南米への移民が増加し、1935年(昭和30)には、海外移住の村民は645名を数えました。 読谷村民を含め、県民が次々と海外へ移住した背景には、当時の沖縄県経済の脆弱さがあります。県民の多くがサトウキビ栽培と自給自足を営む農家で、台風や干ばつなどの自然災害の影響を受けやすい状態にありました。また、1929年(昭和4)に起きた世界恐慌の余波を受け、黒糖の価格が暴落すると、後に『ソテツ地獄』と呼ばれるほど生活が困窮したことも、移住へと拍車をかけました。 移住先での暮らし 移住先での暮らしは困難を極めました。言葉と習慣の壁に悩まされ、朝早くから夜遅くまで続く労働。風土病や現地住民とのトラブル。移民の際の渡航費の返済。 しかし、海外の移民者たちは、厳しいなか生活を切りつめ、故郷にいる家族の為に送金を行いました。その額は、県の歳入額の約半分に相当し、県民の生活の大きな支えとなりました。 戦時中の移民者 移住者らがようやく生活にも落ち着き始めた1941年(昭和16)、日米開戦により海外移住が中断、アメリカ・カナダ在留日本人への強制収容がはじまりました。翌年には、ブラジル、ペルーとの国交が断絶。日系新聞・雑誌の発行、日本語の使用も禁止となりました。 日系人への風当たりが厳しくなる中、若者らは、自ら兵を志願し戦場に向かい、アメリカへの忠誠心を示すことで、アメリカに住む親・兄弟の安全を守ろうとする者も多く現れました。 地上戦が繰り広げられた沖縄では、志願した沖縄二世が通訳に活躍し、米軍への投降を呼びかけ多くの県民の命を救いました。また、シムクガマにおいては、ハワイ移民からの帰国者(故・比嘉平治氏、故・比嘉平三氏)らが、ガマに避難している住民を説得し、約1,000名の村民の命を救いました。
戦後の移民 戦後いち早く救援の手を差し出したのは、世界のウチナーンチュたちでした。戦時中は迫害を受け、生活が苦しいにもかかわらず、荒廃した故郷のために、食料や豚、衣服を届け、貧しい暮らしをしていた県民の支えとなり、生活再生への力となりました。 一方、沖縄県では、海外、県外からのひきあげ者が急増し、人口問題が顕著になるなか、琉球政府は海外移住を再開する政策をとりました。1948年(昭和23)戦後初めての移民33人がアルゼンチンへ渡航。読谷村からは、1954年(昭和29)ボリビア移民が出発し、1964年までに363名が新天地を求めました。 琉球政府の推進のもと、戦後の移民は、本土復帰の翌年の1973年(昭和48)まで続けられました。 これからの沖縄県民と世界のウチナーンチュ 「ウチナーンチュ」という結束のもと、常に県民を遠くから力強く支えてきた世界のウチナーンチュ。彼らの果たしてきた貢献は図りしれないものがあります。しかし、時代の経過とともに、海外県系人の間でも、「ウチナーンチュ」アイデンティティが希薄化し、その次世代への継承が課題となっています。 今回行われた「世界のウチナーンチュ大会」を機会に、移住先国と沖縄の相互発展に尽力してきた移住者世代と、これから未来を創造していく若者双方が、世代間、地域間の相互理解と交流を深め、ユンタンザンチュネットワークの継承、進化、拡充が図れることを期待します。
10月8日、さわやかな秋空のもと第23回健康づくり村民のつどい(主催 読谷村教育委員会)スポーツ大会が運動広場、多目的広場等で開催されました。 総合開会式では、参加チームを代表して古堅南小学校6年生チーム「古堅南キッカーズ」の8名による選手宣誓が元気よく行われました。 各会場では、「小学生キックベースボール」や「シニアソフトボール」、「ミニバレーボール」、「タグラグビー」が行われ、多くの村民が参加しました。 懸命にプレーする中にも、笑いが溢れ、楽しくスポーツの秋を満喫していました。 すべての村民が仲間と集い、体を動かす楽しさを知り、より健康になるために運動を続けていけるよう心がけたいものです。
9月18日の敬老の日、新百歳を迎えられる長寿者に、内閣総理大臣、沖縄県知事及び読谷村長から祝状と記念品が贈呈されました。 今年百歳を迎えられる村内長寿者は5名で、安田村長は、知花スミさん(高志保)、桃原キミさん(楚辺)、糸数カマドさん(大湾)の自宅を訪問し、祝状及び記念品を贈呈しました。 長寿者からは「家族や親戚、地域のみんなに支えられて長生きすることができました。ありがとうございます。」との言葉に、安田村長は「村内に多くの新百歳の方がいらっしゃるのは、とても嬉しく思います。全ての村民が健康で元気よく長生きできるよう、あやかりたいと思います。」と述べました。
9月21日、残波岬公園特設会場で、第34回読谷村畜産まつり(主催:農業協同組合読谷支店)が開催されました。 畜産まつりは、読谷村における家畜の改良と畜産経営の発展に寄与するため、畜産農家の技術の交換と親睦を図り、村の畜産振興を図ることを目的に開かれています。 会場には、大切に育て上げた牛や豚、山羊が多く出品され、厳正な審査が行われました。 また、会場にはウサギや馬、アヒルなどとふれあえるミニ動物園が設けられ、村内の保育園・幼稚園児が大勢訪れ、日頃ふれあうことが出来ない動物たちとめいっぱい楽しみました。
旧読谷補助飛行場返還、用地取得に尽力を頂いた、旧地主を含む関係者の労をねぎらう祝賀会が、9月22日、村文化センター中庭で開催され、多くの村民、関係者が出席しました。 安田村長は「旧地主をはじめ、国県の皆さんや関係省庁のご配慮・ご支援・ご理解により、村民の悲願であった読谷飛行場の返還を実現することができました。これからの跡地利用について、村が責任をもって進めてまいりますが、今後ともご協力をよろしくお願いいたします。」とあいさつを行いました。 稲嶺恵一沖縄県知事は「読谷村の跡地利用は、本島中部の振興に大きく寄与するものと期待しています。県としても今後の跡地利用が着実に進んでいくように支援して参ります。」と祝辞を述べました。 読谷飛行場用地所有権回復地主会長の島袋勉氏は「このような祝賀会を開くことができるとは夢にも思いませんでした。戦後処理の第一歩を踏み出すことができました。国県村と村民の協力の下、跡地利用に全力をつくしましょう。」と述べました。 舞台では、上り口説や鳩間節、加那ヨー天川、座喜味棒が祝宴に華を添えました。
読谷村中学ホームステイ派遣事業に参加した8名が、アメリカ・シアトルでのホームステイの体験を、10月10日、安田村長を訪れ報告しました。 読谷中学3年の上地ありささんは、「英会話をはじめ、アメリカの文化や習慣を学習したり、警察署や消防署、保育園や老人ホームを見学するなど、充実した毎日を送ることができました。時には言葉の壁に歯がゆい思いをしましたが、自分の英語が通じると嬉しくて話すことが楽しくなりました。 この貴重な経験を大切にして、英語の力を更に磨きたいと思います。」と述べました。 安田村長は「ホームステイはこれで終わりではありません。この貴重な経験を活かして、自助努力を続けてください。」と話しました。 ホームステイ参加者 (読谷中)金城 勇作 上地ありさ 與那覇奈月 内間 桃花 (古堅中)呉屋美也子 松田 彩 比嘉 茜 儀間 倫
去る、9月10日の読谷村議会議員選挙で当選した19名の新議員による「第356回議会定例会」(9月議会)が9月28日から10月18日の日程で開かれ、議長に前田善輝氏、副議長に城間勇氏が選ばれました。 また、各常任委員会委員長も次の通り選任されました。 【読谷村議会常任委員会】 ◆総務委員長 ・知花昌一氏 ◆文教厚生委員長 ・仲宗根悟氏 ◆建設経済委員長 ・當山勝吉氏 伊波篤氏が、議会選出の村監査委員へ選任されました。
読谷村議会(前田善輝議長)は、9月議会において11月3日の任期満了に伴い、助役に石嶺氏と池原氏とする人事案件を可決しました。 石嶺氏と池原氏の任期は、11月4日から4年間。 【石嶺傳實氏】 昭和30年生まれ。昭和54年に役場に入り、経済課・教育委員会・企画課を経て、平成11年から企画分権推進課長 平成14年に助役に就任 【池原栄順氏】 昭和25年生まれ。昭和48年に役場に入り、水道課・国体課・企画課を経て、平成10年に生涯学習課長、平成13年から読谷補助飛行場転用推進課長を歴任。平成14年に助役(出納兼務)に就任。 助役2人制について 読谷村は、地方分権の推進や、増大する行政需要に適切、効率的かつ迅速に対応していくため、平成14年11月より、収入役を廃止し、助役2人制となっています。