【見出し】第19回よみたんまつり 11月6,7日
11/6土・7日 第19回よみたんまつり ●運動場広場 ●福祉センター ●民俗資料館 ●伝統工芸センター 美 術 館 ●勤労者体育センター
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11/6土・7日 第19回よみたんまつり ●運動場広場 ●福祉センター ●民俗資料館 ●伝統工芸センター 美 術 館 ●勤労者体育センター
一九九一年九月に、本村の座喜味城で「真夏の夜の夢」シェークスピアin座喜味で旗揚げ公演し、好評を博した演劇空間・大地(照屋京子主宰・ニュースキャスター)が、八月二十八・九日の両日、グスク劇第二弾「Dramatic執心鐘入」を座喜味城で演じた。 今回演じられた劇は、沖縄の伝統芸能・組踊の代表作「執心鐘入」を題材に、歴史や伝統、宇宙と夢幻の世界を交差させ、沖縄演劇の一可能性を探り出すのをねらいとして上演。物語は、中城若松を慕い、恋を成就できなかった「宿の女」が、その情念を金色の蝶に乗り移らせて娘に変身させ、宇宙からきたすべての男たちをめぐって様々にストーリーが展開するというもの。 公演には、二日間に延べ五百五十人の観客が訪れて演劇を一観賞。星空の下、城壁に囲まれた城内では、野外ステージで繰り広げられる異色の「執心鐘入」のドラマに、多くの観客らも固唾を飲んで、演劇空間・大地のグスク劇に見入っていた。
日本で近代学校教育制度が発足したのは明治五年(一八七二)の「学制」の頒布に始まると言われています。 沖縄では明治十二年(一八七九)の廃藩置県によって、「学制」に基づく学校がつくられました。旧王朝時代から琉球藩にかけておかれていた国学は首里中学校となり、小学校が首里に三校、島尻に十校、国頭に一校設置され、那覇に師範学校が創立されました。 明治十五年(一八八二)に至り、はじめて読谷山にも小学校が開設されます。当時喜名にあった間切番所(現在の役場)の一室を教室として開校されたということです。 そのころの学齢児童は一五六二人もいたといいますが、新しい学校には誰も入りたがりません。それで番所では各村(字)に割り当てると、村々ではクジ引きで決め、やっと間切全体で男子三十人の就学者を確保したということです。 入学を嫌がった訳は、学校に入ると働き手を失うとか、百姓には学問はいらない、あるいは大和学校は嫌だと言ったり、大和学問をすると兵隊にされ大和に連れていかれるという風評もあったということです。 それで間切番所では入学者に対し、年に麦を二、三俵支給して就学を奨励しました。 さて、学校では佐賀県人の吉村先生、一生懸命教えますが、生徒は大和口(共通語)は分からず、先生は沖縄口(方言)を知らず、お互いにまったくチンプンカンプンだったようです。それで通訳として喜瀬という人を雇い授業を進めた、と読谷小学校の沿革史に書かれています。 創立後一年目の明治十六年(一八八三)、学校は新たに敷地を求めて移転します。その場所が現在の喜名小学校がある所です。 その頃までの生徒はほとんど男子ばかりで、『沖縄県統計書』によると、女子は沖縄県全体でたった三人しかいなかったようです。 明治十九年(一八八六)に小学校令が公布され、小学校は尋常科四年に高等科四年になります。そして明治二十九年(一八九七)に読谷山小学校に高等科が設置されます。これは画期的なことで、一つの間切(村)で高等科を設置したのは読谷山だけだったのです。 明治四十四年(一九一一)、学校は村の中央部の座喜味前原に移転し、喜名は分教場となります。 昭和十六年(一九四一)には教育法が改正され校名は小学校から国民学校に変わり、昭和十八年(一九四三)、日本軍の飛行場建設にともない、校地・校舎とも軍に接収され、学校は喜名の敷地に移りましたが、去る沖縄戦で六十三年の歴史の幕を一旦閉じました。 写真は座喜味時代の読谷山小学校北側校舎です。校舎中央部は職員室で、左側が低学年の教室、右側は高学年の教室でした。運動場をはさんで南側にも校舎が立っていました。
すばらしい活躍をみせた読谷中学校 読谷中学は、先の県内スポーツ大会において、野球やソフトボール男子、硬式テニス女子、陸上、柔道は男子団体や女子団体などの競技種目で県大会を制覇し、沖縄県代表として九州大会や全国大会に出場。特に、同校三年生の新垣琢也君が夢の柔道日本一に輝いたことは特筆される。 今回の素晴らしい生徒達の快拳に、同校PTAでは"友情・汗・根性で克ちとった青春の栄冠"をテーマに揚げ、多くの関係者を招いて「合同祝賀会」を開催。祝賀会は、素晴らしい活躍を見せた百六十人余の選手団が、会場の大きな拍手に迎えられながら堂々と入場して開会。 会では、主催者を代表して知花修会長が「子供達の今年一年の素晴らしい活躍をみんなで知っていこう」とあいさつ。また、歴史的な快挙を達成した読谷中学の活躍に、大きく感動を覚えた山内村長は「ひとつの学校でこれだけの成績を挙げたことは大変素晴らしいことである。沖縄や九州、日本の頂点に立つ生徒諸君の快挙に胸の高鳴りを感じている。PTA・学校・家庭が三位一体で歯を食いしばって頑張り、今後も飛躍・発展することを祈る」と激励した。 祝賀会では生徒や父母、教師による余興なども披露されるなどして賑わい、最後は、選手団を代表して柔道日本一の新垣琢也君が「今日は、僕達のためにこのような盛大な祝賀会を催して下さって有難うございます。祝福された私達は、これからも慢ることなく、精一杯頑張っていきます」とお礼の言葉を述べた。 伝統を築く読谷高等学校 高校ダンスの最高賞「文部大臣賞」と併せ、「特別賞」のダブル受賞に輝いた読谷高校でも、ダンス部の日本一の栄誉をみんなでお祝いしようと、同校の食堂で祝賀会を催した。 祝賀会には、ダンス部の生徒やその父母ら百人余が出席。主催者の上地栄会長は「文部大臣賞の受賞は読谷だけでなく全県的な喜び。受賞の波及する意義は大きく、県 内の若者に自信と勇気を与えるもの。今回の受賞は、教師の創造性豊かな情熱ある指導や、生徒自身が心から先生を信頼し、歯を食いしばって自分にうち勝つ努力をしてきた成果が実ったものと思う。 また、家庭においては父母の激励を受け、教師`父母・生徒が三位一体となった取り組みが評価される。顧問の与那覇先生には、良い伝統を作って頂きたい」とエールを送った。 これに、与那覇慶子顧問は「一番嬉しいこと、幸せなことはみんなに巡り合えたこと。情熱だけでは十分でなくうまくいくとは限らないが、今回は巡り合わせが良かった。大きな目標の文部大臣賞に向かって精一杯演技するのは夢であったし、こんなに早く貰って良かったのだろうか」と語った上で、「壮行発表会での父母会の支えに勇気づけられ、大会での生徒達の演技は実に立派でした」と生徒を称え、両手には友人や沖縄県女子体育連盟から贈られた花束を抱き締め、目を潤ませた。また、知花小百合部長は「ドキドキしながらも、みんなで『悔いのないように踊ろうね!』と声を掛け合いながら発表した。審査発表の時には声も出ない程に感動しました。指導者の先生や父母に感謝します。これからもいろんな面で頑張りますので応援して下さい」とお礼を述べた。 読谷中学の祝賀会から急ぎ駆け付けた山内村長は「みなさんの顔は明るく輝いている。おめでとう。読高が日本の頂点に立ったことは過去にはなく読谷高校の快挙である。創作ダンスで日本一になったことですごい自信が皆さんにはついた。将来、これからの人生の基礎になり、あらゆることの自信になる。創作は個性であり、個性的なものこそ全国に通じる。ローカルから世界に羽ばたく生徒になってほしい」と祝福した。 祝賀会では、部員によるダンス「古代のまつり」の踊りや「校歌」を斉唱。また、教師らが壮行発表会で演じて好評を博したYA・YA・YAの演技が再現されると、会場は笑いの渦に包まれて生徒や父母らから盛んな拍手を浴びていた。
福岡県で開催された「第八回とびうお少年野球大会」(福岡少年軟式野球連盟主催)に県代表として本村から出場した「読谷エルベス」チームが見事に九州制覇を成し遂げました。 八月十三日から三日間開かれたとびうお少年野球大会には、県内から四チームが代表に選抜された。読谷エルベスチーム(山内清英監督)は初出場。 大会は、九州各地の代表六十三チームが出場して熱戦を展開。エルベスは決勝までの六試合を見事に勝ち抜いて優勝を飾り、同チームは結成三年目にして見事に九州一の栄冠を手にした。 二十一日午前、九州一の嬉しい優勝を土産に、読谷エルベスチームが役場を訪れて優勝報告。役場ロビーで行なわれた報告会では、多くの職員から祝福の拍手を浴びていた。 伊波清安教育長は「チーム名のエルベス(いたずら小僧)どころか、見事に九州を制覇してきた素晴らしい子供たちだ。今後に勇気と自信がついたと思う。周囲の手本になるような活動を期待する」と称え、山内監督は「一人ひとりの選手がそれぞれの責任を果たし、素晴らしい試合をしてくれた。地域の激励のたまものです」と述べ、子供たちを褒めた。 また、キャプテンの山内秀彦君(渡慶次小六年)は「優勝できるとは思わなかったけど、一回戦に勝って自信がついた。うれしかった。チームワークが良かったと思う。ずっと野球を続け、甲子園で優勝したい」と夢を膨らませていた。
下水道の普及を図り、住民が安全で快適な生活を確保する観点から九月十日は「全国下水道促進デー」として運動が展開される。 その活動の一環として県内では、下水道に対する県民への理解と関心を深め、下水道の普及と十分な活用を促進することを目的としてタスキリレー方式による広報パレードを実施。パレードは同日、Aコース・石川市役所、Bコース・読谷村役場、Cコース・糸満市役所の三市村で出発式が行なわれた。 本村での出発式は役場中庭で実施。ランナーには下水道事業を担当する建設課職員や役場職員をはじめ、現在、下水道工事を進めている楚辺区の楚辺走ろう会のメンバーらが参加。 出発式のセレモニーでは、山内村長が「村民や県民に下水道の重要性を訴えながら一生懸命に走ってほしい」とランナーを激励。 パレードは、肩からタスキを掛けた約三十人のリレー隊が元気に役場を出発し、ランナーらは楚辺区を経由して嘉手納町役場までのコース八、七㌔を走り抜き、下水道促進のピーアールに努めた。
(問) 45歳の自営業者です。国民年金には20歳から加入しているので、老齢基礎年金の受給資 格期間の25年を満たしました。今後、保険料を払わなくてもいいのでしょうか? (答) たとえ受給資格期間を満たしていても、国民年金には60歳まで加入し、保険料を納めなけれ ばなりません。また、65歳から満額の年金を受け取るためには、20歳から60歳までの40年間 すべて保険料を納付しなければなりません。引き続き60歳まで保険料を納付し、満額の年金を 受給しましょう。 (問) サラリーマンの妻(昭和13年5月生まれ)です。結婚してからも昭和61年3月まで国民年金に 加入しませんでした。強制加入になった同年4月からは、きちんと手続きも行い国民年金の第3 号被保険者となっています。昭和61年3月までの期間はどうなりますか。 (答) 昭和61年4月1日前はサラリーマンの妻は、国民年金に任意加入者でした。しかし、昭和61 年4月1日からは強制加入になりました。このように、国民年金ができた昭和36年4月からの期 間で、任意加入できたのにしなかった期間を「カラ期間」といいます。サラリーマンの妻、年金受 給者とその配偶者、海外在住者や学生などの期間がそれです。カラ期間は受給資格期間に算 入されますが、年金額の計算の基礎とはなりません。年金額に反映するのは、保険料納付済 期間と保険料免除期間です。 ●サラリーマンの妻の国民年金の期間 ※表 (間) 家庭の事情で国民年金の保険料を30歳から40歳までの10年間免除してもらいました。いま 40歳ですが、この期間の保険料は払わなくていいでしょうか? (答) 国民年金の保険料を免除してもらった期間は、1O年前までさかのぼって、一部または全部 をあとから納付することができます。これを追納といいますが、追納する保険料の額は、免除を 受けた当時の保険料の額に政令で定められた一定の率を掛けた額になります。保険料の免 除期間は受給資格期間に含まれますが、年金額が減額されますので、満額の年金を受けられ るようできる限り追納することをおすすめします。 (問) 60歳まで保険料を納めても、受給資格期間の25年に5年たりません。もう年金はあきらめる しかないのでしょうか? (答) 国民年金には20歳から60歳まで加入することになっていますが、60歳から65歳までの5年 間に限り、任意で加入することができます。保険料納付済期間が60歳で20年しかないのでした ら、60歳から任意加入し65歳までの5年間保険料を納めることで、受給資格期間を満たすこと ができます。ただし、受け取る年金額は、加入期間に応じた額です。 ※表 国民年金に必ず加入しなければならない人は、日本国内に住所がある20歳以上60歳未満の人です。
『ハイタイ、いかがお過ごしですか。お年寄り一人ひとりが国の宝であり、財産です。いつまでもお元気で長生きして下さい』とJA農協婦人部(比嘉好子部長・会員四百七十人)では九月八日午前に比嘉部長らが役場を訪れ、山内村長に婦人部の真心を書き記したメッセージを添えた手作りのティッシュケース五十二個を、ティッシュの中身入りで手渡した。 敬老の日を前に、JA農協婦人部ではこれまでにも村内の独り暮し老人に対して毎年、手作り健康味噌をプレゼントするなどして喜ばれているが、今年は趣向を懲らして従来の味噌に代わり、和紙工芸のティッシュケースづくりに取り組んだ。ケース作りは各支部長らが担い、八月中旬から製作を開始したと言う。 贈呈に当たって比嘉部長は「平成元年から村内の独り暮しの老人の方々にお味噌を差し上げてきましたが、今年は趣を変えてティッシュケースを作りました」と語り、また、ケース作りを思いついたことに関し「薬箱や宝石箱、部屋のインテリアなどの多目的に利用でき、お年寄りの気持ちも明るく健やかになるんじゃないかと思って明るい色柄のティッシュケースにしました。今後とも在宅福祉に目を向け、真心をこめて福祉に尽くしたい」と話していた。 これに応え、山内村長は「敬老の日に先立ち、JA農協婦人部の方々の心のこもったティッシュケースを独り暮しの老人にプレゼントしてもらい、お年寄りに代わり心から感謝します」とお礼を述べられた。 贈呈されたティッシュケースは色とりどりの和紙を使ってカラフルな模様に仕上げられ、ティッシュの他にも小物類が収蔵できるよう引き出し式に作られ、多様に利用できるように工夫されていた JA農協婦人部の作った真心宅配便は、社協を通じて村内のお年寄りに届けられました。
精神薄弱者通所授産訓練施設・読谷かりゆし学園(宮里弘園長)では、積極的な活動を展開して法人化に向けての資金造成に努めていますが、この程、同園で製作する商品の販売協力を行なっている商店をご紹介します。 授産商品の販売に協力している商店は、残波ロイヤルホテル前方に建つ、シーサイドビル一階の商店。経営者は島袋恵子さん(座喜味)で、店名は"シーサイドえん" 島袋さんの経営する店の一角には「かりゆし学園授産商品コーナー」が設けられ、学園の園生らによって作られたランチョンマットやコースター、小物入れからバック、かばん敷き、上履き入れなど、授産商品の数々が並べられ販売されている。 六月十五日から設けられた授産商品コーナーの売れ行きも上々の様子で、かりゆし学園の澤木厚美指導員は「学園として園生らが一生懸命に作った授産商品を販売したいと思い、島袋さんの経営するお店を尋ねて協力を願い出たら快く承諾して頂いた。島袋さんの好意にとても感謝している」と話し、また、「授産商品の値段は百円から八百円程度と手ごろな値段で販売しているので、学園の法人化に向けての村民の暖かい協力と励ましをお願いしたい」と呼び掛けていた。 なお、かりゆし学園の授産商品の販売は、同店の他にも読谷村共販センター売店のニケ所で取り扱っているとのことです。
戦後最大級と称された大型台風十三号が旧盆に吹き荒れ、各字恒例の青年エイサーが順延に追い込まれる中にあって、青年の情熱はたくましく、各地域での旧盆エイサーは日を改めて行なわれた。 そのような若いエネルギー集団で組織する読谷村青年団協議会(山内嘉親会長)の「青年エイサー祭り」は九月十二日に催され、会場となった平和の森球場には村内外から約三千人余の観衆が詰め掛けて賑わった。 エイサー祭りには、12字の青年会から総勢六三五人の青年男女が出演し、それぞれの地域に誇る勇壮・華麗な伝統エイサーを披露。演技は渡慶次青年会を皮切りに各字青年会のエイサーが次々と展開され、訪れた多くの観衆を魅了していた。 主催者の山内青年会長は「若さに満ちあふれた青年エイサーを披露できることは青年の大きな自信につながり、青年会の充実、明日の読谷村を築く源になる。青年活動を通して地域に根ざした住み良い郷土社会の建設に努めていきます」とあいさつ。招かれた山内徳信村長や儀保輝和議会議長は「読谷村の明日を担う青年会の発展を期待する」と激励。また、エイサーまつりでは、読谷村商工会と交流事業を展開している鹿児島県宮之城町から訪れた「ミスかぐや姫(三名)」の紹介も行なわれ、観衆の間から歓迎の拍手が送られた。 フィナーレには55発の花火が打ち上げられ、夜空に華開く壮観な花火に観衆はわき、平和の森球場は歓声につつまれた。 出演団体 渡慶次青年会 座喜味青年会 楚辺青年会 宇座青年会 瀬名波青年会 波平青年会 都屋青年会 大木青年会 喜名青年会 高志保青年会 儀間青年会 伊良皆青年会