読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1956年11月発行 読谷村便り / 1頁

読谷村の概況(続)

読谷村の概要(続)
五.産業経済の動向について
一、農業
1、農業経営の隘路は
(一)農耕地は極度減少した。
(二)農家は総戸数の七十六%を占めている
(三)経営規模は極度に零細化された。
(四)農業産業基盤は破棄された。即ち地力の減退農業基本施設は破棄された。
 戦前の耕地は読谷村総面積の約六〇%を占め19,626反を有し農家一戸当約六反の耕地を経営していたことは、前述の通りであるが、地味な余り肥沃ではなかった。しかし、美味な甘藷の産地として知られ亦、糖業は産糖量において品質において県下に優位を誇っていたし、養蓄も盛んであり、特に肉用牛の肥育地帯としてもその名を認められていた。特に地力の維持増進については特例な政策が行われたようである。甘藷、砂糖の品質がよいという理由も自給肥料の豊富な使用が原因しているとも言われている程に推厩肥の増産には村当局も村民も意が用いられ地力の保持増進に努めたとのことである。
 農道は村内地域到るところ縦横に開通し、馬車により農産物の運搬、推厩肥の搬出は容易であった。農道の新設改修や推肥、厩肥の増産畜産奨励等は年々の原山勝負に審査採点され、地力の維持向上に果たした役割は大きく評価されよう。このような一貫した農業政策によって戦前の読谷村は純農村として可なり安定した豊かな農業経営がなされていたのである。
 しかるに戦後は凡ゆる生産基盤が破壊された椋奪農業は地力を著しく減退させた耕地の三一%を占めて栽培された甘蔗はその大半を黒糖製造に供せられていたためその処理工場として建設されていた五ヶ所の共同製糖場(能力約一二〇屯)と蓄力鉄車製糖場八〇ヶ所(能力約二四〇屯)は跡形もなく壊滅された。座喜味城跡高台から放射線の如く開通された農道も形跡を認められぬ程に荒廃した。耕地護岸や河川堤防も或は防風林も凡ゆる農業基本施設は破壊されてしまった。戦後十一年、一挺の産糖もなく、その他農産物の生産も戦前の比でないが今年漸く五〇屯工場が建設される運びとなり年内竣工、来春早々の操業を目標に工事が進められ第一年次に約三,五〇〇挺の産糖が予想されるまでになった。
 工場の建設は甘蔗栽培面積の増反が必然的に要求され亦、促進されよう、搬入農道の新設改修も急がねばならない。畑地濯概施設荒蕉地の解消も必要になってくる。
 この工事が基盤となり養蓄も盛んになり、堆概肥も増産され地力は増進し、輪作関係にも影響し経営が改善され合理化されることは明らかであり、本村の経済振興に大きい役割を果すものと期待される。かく考えるときたとい戦後耕地の大半が軍用地に接収され耕地は少なくとも基地近傍の立地条件も併せ考え有利に利用することによって農村としての本村の将来も決して悲観視されるものでなく明るい前途であることが確信される。

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