読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1959年3月発行 読谷村だより / 2頁

読谷村のすがた

読谷村のすがた

 読谷村は上り口説や下り口説で有名な残波岬を北端に、沖縄の楠公とうたわれた忠臣護佐丸によって築かれた座喜味城趾、万人の苦悩を救い願望を成就せしめると村民から崇拝される観音様、なは仲島の名妓歌人古屋恩鶴が身売され連れ行かれる時に詠んだ。
うらむ比謝橋や
情ねん人のわん渡さと
思てかきてうちやら
の比謝橋。
琉球音楽の祖といわれ
唄と三味線の昔始りや
インコねあがりの
神のみ作
或は
うざの楽しみや
唄と三味線
楽しみにまかち
長座するな
と云う教訓歌などを詠んだと伝えられている赤犬子の御堂、比謝川河畔、泊城などの史的名所や景勝地など数多く、亦読谷山種や楚辺暗川など甘藷、甘蔗で名を得た処でもある。芝居や昔話の種で有名な多幸山
多幸暗山ヘーレー
てんどう
喜名番所に泊らなやー
女のてらむん
番所に泊ゆみ
 倉波の村まで走いとばしなどは昔のこと戦前の読谷山ヨンタンザーの山を取捨て今は村名も読谷村と新しい呼称、山はなくなって弾薬集積所に変り多幸山の追剥は姿をかくしたので多幸山も心配御無用読谷村に多幸あれと村財政に貢献している。
1、明治四一年沖縄県島嶼町村制による初代の村長は島袋盛助氏で現在の村長は十三代目である。
二、行政字の数は二二、区長二二名、村議会議員二○名、役所吏員は村長以下三一名
三、一九五五年一二月一日現在国勢調査人口は一八、八○二名で一九五八年一二月末現在一八、八四四名、戸数三、四二四戸となっている。
四、総面積は三一・五平方粁(九、五三九、四三四坪)でその七二%は軍用地である。
五、学校は小学校が四校で三、○一五名、中学校が二校で九五七名、高校が一校で村出身在学生は四八五名となっている(一九五八年二月末)
六、総人口の四○%にあたる七、五二八名は就業者でその三二・四%(二、四四一)は農業及び小規模企業主で二七・六%は家族従事者である。
七、家畜は一九五八年一二月末で豚が七、三二一頭馬一八○頭、牛は八八頭山羊二、二四六頭、鶏七、四六一羽で、豚は品種も頭数も沖縄一、一年間の生産頭数が六、五○○頭。
八、耕作地面積は五九、九三○アール(五、九九三反)で作物作付延面積は八六、三七○アールであるから利用率は一四五になる。主なる作物は甘藷六六%、五七、○○○アール、大豆一○%(八、六○○アール)甘蔗七・一%(六、一四○アール)の順となっている。
九、財政は一九五八年度の決算によると、才入は一一、○○○、○○○円で最も大きいのが財産収入三六・六%(三、○○○。○○○円)で次に村税一九・三%(二、○○○、○○○円)で人口一人当税負担は一一○円である。それから交付税政府支出金等となっている。支出は九、○○○、○○○円で産業、教育、社会事業等の振与に六○%、五、四○○、○○○円支出され行政費が四○%で三、○○○、○○○円の支出となっている。

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