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1960年5月発行 読谷村だより / 3頁

「パチンコとお好焼き」-大人は子供の領域を侵していないか-

「パチンコとお好焼き」
-大人は子供の領域を侵していないか-

 私は去る五月二十六日に「あすなろ会」の主宰西川章夫先生と中部地区社協婦人児童委員との懇談会に出席しました。これから書こうとしている事はその時の西川先生の御話の概要であります。「あすなろ会」の主宰西川先生の職柄から御紹介しましょう。先生は大阪市社協児童福祉委員で童話のおじさんとして日本全国著名の御方であり、スラム街の児童と生活を共にした児童福祉事業の実践家で特に沖縄本土就職児童のために全国行脚をつづけて居られる御方であります。
 つぎに「あすなろ会」について少しく説明致しましょう。「あすなろ」というのは、木の名前でヒバ域はアテとも呼ばれ、石川県の能登半島に多く、硬質で建築材に使用されているが、幹の太いスラリと中天にまで伸びている檜を眺めて、俺もあしたは、お隣りの檜のようになろう、あすなろ、あすなろ、と明日に希望をもって伸びているように、私達もあしたに希望をもって夢をいだいて明るい楽しい生活を築きあげよう、という趣旨から「大人も子供と手を結んで夢をもとう」というスローガンによってつくられたのが「あすなろの会」であります。
これから「あすなろの会」の主宰西川先生の御話の概要を書いてみましょう。
日本にも亦沖縄にも児童のためのいろいろの組織が作られている。しかしいずれの組織も協議が主体で実践体としての活動に乏しい感がする。頭デッカチの逆三角形となっている。高位高官、知名士のズラリと名をつらねた多くの組織体で子供のための非常に立派な協議がなされても、実際に如何なることをしているかという事になると心さびしい状態である。文化人と称する人々がズラリと顔をならべて協議しているだけで実行体がない。第一線に立って子供の実生活にふれあうのでなければ効果があがるものではない。
形式を捨てよ、という事ではないが、形式にとらわれすぎては実行がにぶる、「あすなろの会」は規約もなければ会費もとらない、肩書を除いて地域社会のために、正しい社会建設のために、善意と意欲と博愛を以て協力する、よいと思ったら直に実行するというのが「あすなろの会」であり、肩書をはずした「あすなろの子等」になるとき、子供と大人との近親感、親密が生れる。子供は何んでもいえる子供が親として最も大きい喜びでなければならない。悪い事をした時でも親には素直にいえるようにしなければならない、自ら進んで悪の道に入る子供は絶対にいない。若し悪に流れるとすれば社会の環境か、家の中にその要因のひそんでいる事を知らねばならない。パチンコもそのもとをただせば子供のあそびであったろう。御好焼(おこのみやき)も子供のオヤツであったろうに、子供の遊びオヤツまでとりあげた大人の社会、劇場、バー、キャバレー、クラブ等の歓楽街どぎつい程の色彩で絵がかれたエロ本悪書、悪徳映画、視聴覚からあたえる子供えの悪影響、大人は、もうけるためなら何を作ってもよいと、子供たちの犠牲の上に立って、口に子供を守ろう子供のために、といいながら、実行していることは何もない。
目に映つるもの、耳の聞ゆるもの、すべてが大人の亨楽のための施設ばかりである。子供公園、子供図書館、子供あそび場、その他児童福祉施設は極めて貧弱である。子供の教育は学校にだけまかしてはどうにも出来ない。社会の大人が三回のうち一回でもよいから、ほんとうに子供のためによい事をしてやる善意と意欲と協力によって、よいと思ったら自分の信念と責任において実行にうつすとき、子供の夢が実現され明るい街が自然に建設されよう。
この程度でお話の概要説明を終ります。いろいろ聴きちがいや、ぬけた処もあると思いますが子供たちの幸福のために何かと参考になれば幸だと思います。
(知花成昇)

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