読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1961年12月発行 読谷村だより / 3頁

※「第六号線のアスファルト道路舗装完了」 回顧

〔66号の2ページの続き〕

くなることが考えられるのである。さらに第一に述べた路上で遊ぶ子供等の多くなることと、この問題を考え合わする場合、車を運転する者の安全運転を強く望むものである。最後に、子供等を交通事故から守るために父兄も学校側もまたお互いの地域社会から、かかる事故を未然に防止するために歩行者も運転者も一緒になってこの第六号線道路の舗装完了を契機として交通事故の起らない平穏な村を願うに切なるものである。村民の希望によって舗装が完了し村民の要望が実現したけれども、そのことによって軽い事故、あるいは少い事故発生といえどもそれは不仕合わせであり、それが起ることは、実に不幸なことといわなければならない。結局、みんなが常に交通法規を守り、お互いが注意し合って交通事故を未然に防止する地域住民の責務を怠たっていて仕合わせを祈ることは不可能であろう。

回顧
 誰かの机の上に放置されてた月かん雑誌の巻頭言に「初めに終りを思う」ということを読んだ、内容はよくおぼえていないが、人間は生れた瞬間すでに死を目前においている。生命ばかりでなく我々の日常生活に起る総ての仕事も、始めるときに終りは考えられている。そうでなければ良い仕事は出来ない、終りを念頭に置くことによって元旦に立てる一年の計画もより本質的な実行可能な真じめな計画になるのだ、という意味のものだった。毎年の事ながら都市に大売出ののぼりが立ちならび基地のクリスマスツリーの飾りなどが道行く人々の足なみになにかしらわけの分からないいそがしさをもたらしてくる頃、農村でも、あちらこちらで結婚式や忘年会の話がもちあがってくる。あわただしい年末の季節的な情感が起スピードでおしよせて来て、ゆっくり一年を顧みる心の余裕をあたえてくれない。そういう理由で今年も例年の如く師走も半ばすぎさり後数日になってしまった、これだけは今年中でやってしまおうという時間的余ゆうさえ持ちぬままにおしながされてしまった様で、あまりにもあわただしい時間の連続であった。年の初めにあれもこれもと計画した多くの事は年の瀬おしせまった今日この頃山積されたままに残されている事に気がつく、その反面多年の懸案であった幾つかの問題の解決をみたものもある。

※ 六号線の舗装も年末になって漸く完成をみて去った十二月二二日に開通式が行われた。
※ 郵便局も新築され喜名の郵便局の改修された戦前の二局に復興した。
※ 敬老金の贈呈もささやか乍ら実現のはこびになった。
※ 肥育牛のセリ市は沖縄で戦後始めての開設で畜産農家に好評をはくした今後の畜産奨励に大きい役割を果し得たと信ずる。
※ 渡ヶ次小学校の六○周年記念事業図書館、読谷中学校の統合十周年記念団書館は今後の学校教育効果に大きいプラスをもたらすことでしょう。
※ 悩み苦しみ続けた北部水道も漸く解決の諸口をつかんだような気がする。
※ 一号線六号線の植樹も今年から並木らしくなってきた。
※ 都屋港の浚渫も政府の援助と村予算、地元民の協力でほぼ完成した。
こう数えて見ると例年におとらない発展の段階を進んで来た様に思う、予算にあらわれない形にみられないいろいろな面でも一応の発展のあしあとを感じ取る事が出来た。例年の如く将来のためにすぎ去った一九六一年の行政日誌を列挙して今年最後の村だよりの一頁といたします。

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