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1963年12月発行 読谷村だより / 4頁

はなしのサロン 葬儀の設計

はなしのサロン (葬儀の設計) 
古堅中学校 幸喜 明
 先の此の欄は渡久山先生の御執筆で、先生が復員なさった当時、半ズボンの裾からモッタイなくも源氏の御旗をなびかせて大分駅をかっぽなさったと、なんとも豪放なお話で御座居ましたが、私のように経験の乏しい、それも、手前の性のさせる事とは申せ、好んで狭く世間を渡って参りました者では、とうていひそみにならう訳にも参りませんで、勝手乍ら、近頃無聊にまかせて、休むに似たる考えの中から、標題の如く-清張バリのミステリーと参りませんでも-葬儀雑感と言ったところで、お茶を濁させていただきます。
 村の発展を希うが本意の此のリーフレットに近頃迷惑な不祥の駄文と御立腹の向きも御座居ましょうが、そこは、それ非才なすところとお嘲笑い捨て下されば、幸いこれに過ぐるは御座居ません。
 閑話休憩
 過日、ケネディ大統領国葬の様子をテレビで放映致しておりましたが、心なき者への痛憤を志半ばにして逝った偉人への同情の念を押さえるに窮しました。
 就中、興味を覚えましたたのは、一国の統領が一海軍士官としてヴァジニア州アーリントンの国立墓地に埋葬されたと言う事で御座居ました。国民の英雄は国民の中へと申すのでありましょうか。流石だ愚考え致しました。
 併せて思いますことは彼等の墓碑銘がまことに簡潔なことで御座居ます。姓名、生没年月日、亡くなった原因。まれに詩を刻んだり致しております。ここにもプラグマティズムが働いているので御座居ましょう。
 奇しくも期を同じうして、一の縁者を失いました、もとより高名の者では御座居ませんが、とまれ、七十余歳の生涯を思う通りに生き抜いた人で通夜の雑談も概ね暗さはありませんでした。なんでも、位牌の戒名を認めるお坊さんの素振りが気障で鼻もとならんなど申しておりました。
 示来梵語(サンスクリット)で記るす呪文のような文句は、おいそれわかろう筈も御座居ませんがそれを盛んに攻撃している図は、鳥渡兼好法師に評して貰い度う御座居ました。
 不幸は続くときには続くもので、つい最近亦伯父を失ないました。
 半生を海と暮らした人で、赤銅の面に異国風(エキゾティック)なものさえ感じさせた往時の元気もなく、大戦後船のないままに陸へ上がってからは、落魄の所為も手伝って、半身不随で病床に親しむ日が多う御座居ました。
 だびの為、安謝の火葬場へお骨を拾いに参りますと、二尺に六尺程の亜鉛板の上に余すところなく焼き尽された石灰の塊が載って居りましただけで、綺麗なものだと存じました。
 上総介信長が父信秀の法要に、抹香を鷲掴みにして「渇ツ!」と投げつけたと申すことで御座居ます。伯父も、この儘海に向かって風に舞う雪の如く骨灰を吹き飛ばされた方が冥途の旅も心残りがなくてよかろう・・・。
 伯母の悲痛を他所に、そんな大変なことを考えてみたり致します。
 墓所は久茂地に御座居ます。それを開くとき作法で御座居ましょうか、家長の惣領が入口の壁をノック致します。入口に一基の骨壷があり、伯父の前になくなった人だそうで、入口に安置してあるのは墓守の意味だそうで御座居ます。今度伯父が替わるので御座居ましよう。
 伯父の瓶の後に、鶏を置いているようでしたが、訳は聞き洩らしました。故人が軍鶏を好んで飼っておりましたから、その為かとも思います。
 墓所を閉じるまで、いろいろ見聞しましたがお葬いも大抵じゃない。うっかり死ねないな。と言うことだけ始終考えておりました。
 会葬の婦人連を帰えして、男子だけ残り、供物を全部いただかなくてはならないそうで、気色の悪い所で、必死の思いで詰め込みました。嘸や胃の腑が仰天したとこで御座居ましょう。
 話の中で先程の惣領が申しますには、「ここらは、じき公園設置のため、墓も移転の止むなきに至っておる。お前達も各々墓所を移さねばならんから、覚悟しておけ。」と申します。さて、困った。私共の父は、なんでも四男で御座居ましたので、地所など、気の利いたものは楽にしたくとも、持合せが御座居ませんし、まして当今那覇でそれも墓所にあてがう地所を求めるなどは、今日天竺に普賢を求めると同等で、御座居ましょう。
 剰え「一人前のいい若い者が、嫁を求める術もなく、仏頂面を北風にさらして自慢になるか。」と会う人毎にどやされて居りますものを。此の上墓まで担いで歩るいちゃ間尺に合わない。
 術なく、思案も浮かばぬままに、結局、死んだら遺族に迷惑かけぬ法はないものかと考えましたことがをどのつまりで、葬儀の設計と言うことになりました。
 生身の人間が棲に困うじて、団地だ、スラムだ貸間だ間借だと不如意を喞つ昨今、亡者が、他所を占領するのもどうだろう。祖光伝来の美風は惜しいが、さりとて残る者への無用の配慮わずらわせるのも一層口惜し。そこで火葬のあとは、山へなと、海へなと、故人の遺志に従って一種の風葬とはどうだろうか。
 その点、私の父などは、感心で、すっかり海に沈んでしまったから、後クサレがない。骨壷はあるにはあるが空っぽだ。
 などと途方もないことを考えてみましたがさて、我が身に引き合せて考えますと、輪廻などと申すことが真実あるもので御座居ましたら、来世に骨がなくては事欠くだろうと寂しくなったり致します。
 されば慣習は、美風、悪風吾人の生活から離れ難いので御座居ましょう。駄弁を弄して大方へ御迷惑、恐くして擱筆。
一九六三年十一月十一日

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