読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1971年4月発行 広報よみたん / 4頁

読者サロン 随想 望郷

読者サロン 随想 
望郷  吉田 順子
 私は幼くしてハンセン氏病にかかり、喜名小学校を一年三ヶ月で中退しなければならない運命に見舞われました。今からおよそ三十数年も前のことです。
学校を中退してからの毎日は、家にこもりっきりの淋しい明け暮れでしたそして間もなく病気を直す医者が牧原にいることを聞きました。その後は日の暮れる頃から人目をしのんでお医者さん通いをすることが私のすべてになりました。一週間に三回ぐらい、降っても晴れてもそれを止めるわけにいかず、溺れる者がワラをつかむ思いで医者の所へ通いました。六ヶ年間も牧原通いは続けましたが一向に効果はあらわれませんでした。悶々のうちにも月日は夢のようにすぎてゆきました。沖縄戦の開戦間近か、昭和十八年の春、ここ屋我地の一角にある愛楽園に入園しました。戦争-終戦-祖国復帰と、私の入園後も世の中ではいろいろなことが起りました。が何十年経っても変らないのはふるさとへの慕情であり、父や母、あの友、この友につながる幼い日の思い出であります。ふるさとへ帰ってみたい!ゆえ知らずこんな思いにかられる時がありますでも、いざとなると外へ出る勇気がわかずこわごわとはるか読谷の空をしのぶだけです。そんな日は、昔、牧原に通ったころ、月夜の晩に子どもたちが比謝川のほとりで鮒釣をして遊んでいた情景や、山や家並みが幼ない日のそのままの形で目の前によみがえります。わずか一年そこそこの学校生活でおそわった「うさぎ追いしかの山、小鮒釣しかの川、夢は今もめぐりて忘れがたきふるさと」の歌を口ずさむときいつも目頭が熱くなる思いがします。
この前(二月中旬)は、村長さん方のご好意で、村役所の方々が私達読谷村出身者をはげますために、ご訪園下さったそうで、私はそのことを聞かされ胸がいっぱいになりました。こんなことを書くのは失礼にあたるかも知れませんが私個人の胸の中には、中部でも指折りの大きな読谷村でありながら、村人一人も私たちの園を訪ねて下さらないのはどういうわけだろう、と不満に思っていました。それがやっと、村ご当局と私たち愛楽園で療養中の村出身者の間に、親しい交流のパイプが開かれたようでほっとしております。ほかの市町村からは、民謡や、踊りや、多彩な慰問の便りが想うようになった今日いつかは読谷村からも心はずむようなご慰問がおとづれることを祈りつペンをおきます。

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