読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1977年3月発行 広報よみたん / 6頁

部落の移りかわり 歴史民俗文化の香り高い読谷村 村民の英知とご協力を

 沖縄の歴史は、王国時代(按司)の後を受け、十七世紀以降間切時代(地頭代)になるが、一六七三年恩納間切が創立され、読谷山間切の倉波、山田など長浜以北の六村(字)が恩納間切に編入された。一九〇八年(明治四一年)沖縄県島嶼町村制の施行に伴ない伊良皆・大湾・喜名より長田・牧原・親志がそれぞれ分離した。
 大正時代に入り、一九一四年(大正三年)大湾から比謝が分離、さらに一九三五年(昭和十年)に大木が楚辺と比謝から分離したのである。戦前までの読谷村の部落は二十一ケ字であった。一九四五年(昭和二〇年)第二次大戦の上陸地点になった本村の戦争被害はかつ甚大。中北部に避難していた村民がようやく読谷村に帰れたのが一九四六年(昭和二十一年)のことであった。同年八月に波平と高志保・十一月に楚辺と大木の一部が解放され、村民は「読谷村建設隊」を組織し「建設後援会」とが一体になって焦土と化した読谷村の再建に立ち上がった。この年、都屋は座喜味から分離したのである。こうして読谷村は現在の二十ニケ字になった。
 戦後、米軍の基地として接収された為に元の部落に帰れない字が渡具知、古堅(一部)、比謝、牧原、長田、伊良皆(一部)、親志、楚辺、宇座、儀間(一部)等十一ケ字におよび、そのため新しい土地に新しい部落を形成したところ、区民が離合集散し、行政区としてまとまりのつかない不便な部落になったところ、生活地域とかけはなれ、旧部落意識や旧部落の共有財産の存在などによってかろうじて部落行政に参加している世帯など正に複雑な問題である。
 過去の部落の変せんを眺めて、歴史の大きな変転する流れの中で、不合理性を是正し、矛盾を正し、適正規模の新しい部落づくりのため、村民一人びとりの英知と協力によって、はじめて成し得るものである。
(写真)読谷村の発展に常にコミニュティー活動の中心となってきた地域公民館・現在村内には二十一の部落公民館がある。

※写真は原本参照

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