読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1977年5月発行 広報よみたん / 2頁

この願いこの叫びを国政に反映させて 所有権回復を願い調査団に必死の訴え 衆院内閣委沖縄調査団来村 一、飛行場接収の状況 村中央部に六五万五千坪

この願いこの叫びを国政に反映させて 所有権回復を願い調査団に必死の訴え 衆院内閣委沖縄調査団来村
 読谷飛行場用地所有権回復促進運動は今や全村民的に盛り上がり、国政の場においても論議され大きくクローズアップされている。
 そのさ中、正示啓次郎衆院議員を団長とする衆院内閣委沖縄調査団一行十四名が去る四月二十一日午後三時三〇分来村し読谷飛行場用地について視察調査活動を行なった。一方、読谷飛行場所有権回復地主会(池原昌繁会長)では、衆院内閣調査団が初めて現地を視察するとあって全地主を招集し大きな横断幕を揚げて調査団一行を迎えた。歓迎の横断幕には「国会の先生方ご苦労さまです。地主の所有権回復にお力をかして下さい」と揚げ一行を盛大な拍手で迎えた。この盛大な歓迎に応え調査団一行も「ご苦労さまです。頑張って下さい」などと激励していた。この日招集された地主はほとんどが年老いた老人で、太平洋戦争目的遂行のため旧日本軍に薄われた祖先代々の土地を返して下さい。と必死に願い、中には合掌して願う老人の姿も見られた。調査団一行は老人達の必死に願う姿に心をうたれ、政党の色あいぬきに超党派的立場で地主会の要望に応えていきたいと述べていた。
 調査団一行の調査活動は十五分と短かい限られた時間ではあったが、その間を利用し地主会の池原昌繁会長から説明を受けた。また、山内徳信村長は「読谷飛行場用地の元地主への返還に関する要請」を行なった。
 尚、調査団一行は、読谷飛行場の現況視察に先だち、都屋、波平及びボーローポイント地区の位置境界明確化作業現場視察も行なった。
 次に読谷飛行場用地が国有地として取扱われるに至るまでの資料を掲載します。

一、飛行場接収の状況 村中央部に六五万五千坪
 読谷飛行場(旧北飛行場)は、昭和一八年の夏太平洋戦争目的遂行のため、旧日本軍が南西諸島における航空作戦の拠点を確保するために建設が進められていたものである。この飛行場は、読谷村の中心部の字座喜味、喜名、伊良皆、大木、楚辺、にかかる六五五、○○○坪(一、七五〇筆)の広大な濃地を強制的に接収したものであり、当時この地域には六八戸の民家と約六五〇名の地主とおよそ三、六〇〇名の人々がこの地域を生活の根拠地として土地を使用していた。
 日本軍にとっては、本土防衛と南方航空路強化の観点から機動用飛行場建設が急務となり、読谷村でその設定業務に着手したのである。しかし、関係地主には事情が知らされないままに飛行場予定地に旗が立ち、その後地主を読谷山国民学校等に集め用地提供を示達したのである。用地提供にあたって「この地域は飛行場として適地である。戦争に勝つための飛行場設定であるから諸君の土地を提供してもらいたい。将来目的が終了した時点には地主に返還する」という説明だけで地主の意見を聴くということは全くなく、土地の売買契約については一言の話もなかった。
 その頃は、軍事優先の情勢にあり飛行場建設は緊急を要したので、地主の意見を聴取するという社会情勢ではなく坪当り土地単価は後日決定するとして、とりあえず地上耕作物の補償と民家の立退料を支払うこととし、飛行場建設に着手したのである。
 農作物補償と民家立退料は建設工事が進んでから支払われたので、戦況の悪化のためにそれさえも受領してない地主もおり、また、農作物補償や立退料として支払われた金銭は愛国貯金や国債を買うように強要されたが、沖縄戦の激化により、その証書のほとんどは焼失又は紛失して現金化して使うということも出来なかったのである。

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