座談会 老人の日にちなんで 福祉の重要性を再認識しよう
九月十五日は老人の日です。この日は長い間、社会に貢献してこられたお年寄りをいたわると共に誰にとっても、さけて通ることのできない老後をいかに過ごすかという老人福祉や老人に対する認識をあらたにする日でもあります。
広報よみたんでは、特別企画として老人の日特集号を発行しました。その中で老人との座談会の席をもち、お年寄の長い年輪の中での数ある体験談を拝聴する機会を設けました。以下「座談会」へご案内いたします。
ヒラカンカーいわれた学問の道
★司会
本日はご多忙のところようこそお集まりいただきました。本日の座談会は九月十五日の老人の日にちなんで「広報よみたん」の企画にのっての座談会です。
長い年輪の中で積み重ねられて来たお年寄りの体験は私たち若者にとって何よりも変えがたい貴重なものがあるかと思います。そこで長い年月にわたって体験してこられた数々の体験談などお聞かせいただきたいと思います。
まず少年時代を振り返っての思い出から入りたいと思います。
※知花平次郎
私の少年時代は何かと向学心に燃ていましてね、そのことを親父に話すと何んのために学問するのかとさんざん怒られてね、親父は農業を継がせると一本ヤリでした。私は農業は出来ないからと断り続けたが、ガンとして受け入れられませんでしたね。時には農業をほっぽり出して学校に行くこともしばしばでしたね。当時の社会状勢はわがままは絶対許されませんでしたね。
※喜友名正謹
私は喜名に寄留して来まして、畑も財産もない。そこで村の人から小作させてもらい生活していた。寄留民の中には子供に勉強させ、将来に夢を持つ人が多かったですね。親も一諸に勉強して、勉強することによって財産を築こうという風調がありましたね。
※知花
財産のある世帯は畑を耕すのが仕事で「アラジモー」にしておくと周囲とのメンツもあるし、使用人を使って子供は学問なんてタブーでしてね。勉強は畑の次の次の程度で軽視されていましたよ。
※金城松義
学校をきらう原因は土地を守るというのと、もう一つは「学問の先は矢の先」と云われ、学問をさせれば地畑も売り家も売って失くなってしまう。また、学問を受けた人がよく人を騙すことがあって学問を嫌っていた原因では何いですか。
また、学問する子は「ヒラカンカー」といって何もならない「なまけ者」といってね。汗水流して畑仕事をする人が模範青年といってほめられましたね。
※喜友名
財産家の子供の中には懸命に学問しようとする人もいたが親たちが許さなかったですね。その点、現代っ子はめぐまれていますね。
※上地松徳
私の場合は父が戦争(日露戦争)でケガをして、四年の頃母を失ない生活はとっても苦しかった。喜名の山には毎日薪代用のワラビーを取りに行きましてね。小学校も途中で辞めました。やっと落ついた頃、弟妹を学校にやろうとしたが「兄さんも学校に行かないのに僕たちが行くわけないよ」といわれて上級学校へは皆行きませんでした。
※長浜真長
自給自足の世の中ですからやはり生産手段の高い農業が重んじられていましたな。第一、学問させれば、借金はつきものなので「シミの先やヤイの先」という昔ことばでもできたのでは。農業をよくする青年はみんなに好かれる世の中だった。
※知花
女性はよく働きましたね。明は夜の明けきらぬ内に薪とりへ、昼はいも堀り、そして帽子編みと今では話にならない程に働いていたね。
※一同
生活環境がそうでしたな。
※金城
昔は農業以外の労働市場が少なかったでしょう。女は帽子くま~で金もうけできたが男は農業か、漁業かでそうでないと出稼ぎに出るかでとにかく労働市場が少なかった。また、分家する時、借金して家を建てるとその人は失敗する。その金で土地を買うと成功するといわれ、それ程に自給自足の世の中だった。住む家はアバラヤー小の土カベ作り冬はすきま風が身にしみましたね。いつの時代に、「ヌチジ屋」のあるじになるかと、それが夢でしたね。
※長浜
労働市場が少ないというとで南洋やハワイヘの出稼ぎが多かったですね。
※金城
出稼に出ると「手紙はあとからでよいから金から早やく送れよ」と冗談ともいえない本音が聞こえましたな。