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まさに地獄図のよう 戦争をのろい平和を尊ぶ
★司会
昔のきびしい社会状況は私達の世代では想像もつかない程で、話でしか知ることはできない。そういう少年時代をすごされ、青年時代を迎えやがて一家のあるじとして生活基盤を築こうとしていた矢先に、不幸にして先の大戦で苦しい体験をなされ、一番ご苦労なされたのが現在老人クラブ員でいらっしゃる皆様方ではなかったかと思います。当時の皆様方がほとんどが三〇代~四〇代の働き盛り。その中で古里は廃城と化しその復興にいち早く立ち上がってこられ、苦しい時代を乗りこえ、今日の社会を築かれて来たことは特筆されるべきだと思います。
そこで、戦時中、終戦直後を振り返って数ある体験談をお聞かせ下さい。
※宇座
戦争中のことは思い出したくもない程です。それ程醜い戦争を体験しました。兎角いま考えて見るとゾッと背筋が冷えますね。あれで良く生きながらえて来られたものだと思います。終戦直後はほんとにみじめでしたね。私も子供達が小さく米軍からの配給食糧ではどうしても足りなく時にはミーいも小を捜してきて子供達に食べさせましたね。当時は割当畑で子供もいっしょに夜の十一時頃まで働きましたね。又、生活をするために「ヤミ商売」もやりましたよ。遠くは中城村まで行って買い出し、その足で那覇の町小にローボーバスに乗って行きましてね、時にはヤミ取締りのMPにあって逃げまとう姿はつい
きのうのような気がしますよ。
※新里ナヘ
私は先の大戦で夫を亡くしました。子供は五人いて食べ盛りの子供ばかり。戦争前は主人が働き者で平和な家庭でしたが戦争によって主人を失なった時、ことばでは表現できない程に悲しみました。だが、いつまでも悲しんでおれず、只、子供達の成長を楽しみに昼夜なく、時には母となり時には男となって牛馬のように働きましたね。
台風の時などバラック小屋の下で五人の子供をかかえ小鳥みたいにちぢこもって雨にぬれながら主人がいたら……と子供といっしょに泣いたものです。戦争がにくい只その一言です。
※石嶺スエ
子供達にひもじい思いをさせないためにカンダバーの枯かかったもの取って来て食べさせましてね。火の気を消さないと気ずかったマッチ一本のありがたさは忘れません。
※上地
その時、私は羽地役場にいました。私の所へ助役の松田平昌さんが来て、すぐ読谷に来いといわれました、私は「読谷は家も何も残ってないのに何しに行くんですか」と問い返した。平昌さんは「読谷は廃墟と化したが再建せねばならん」移動も許可なったので君は是非村民の先発隊となって行ってくれといわれた。村に来たら何も残ってない。
その中で我々は再建へと日夜努力しましたよ。昼めしなどはビスケット四枚で我慢しましたよ。だが食欲旺盛の若者だから道端にある食べられるものは何んでも取って食べたね。カンダバーとかコーレーグースーなど手当りしだいにね。いま考えてみるとよくあんな無茶な働きができたものだと思います。先発隊の皆さんは廃嘘の村を再興せんと我れを忘れて一生懸命でしたね。
※宇座
※写真「知花平次郎」、「金城松義」、「新里ナヘ」、「喜友名正謹」は原本参照