読谷山万事始(その2) ““橋の巻”” 渡久山朝章
読谷は橋から入って行く。ということは村の端(ハシ)は橋によって他村に通ずるということである。比謝橋から入ると多幸山の小さな橋や長浜橋から恩納村へ抜けるし、牧原から嘉手納へは久得橋や栄橋を通って行ったものである。そして古堅から嘉手納への通路は製糖工場の回転橋だったのである。
周辺部に比べて村内に橋が少ないことは、我が村が水を吸い込み易いコーラルの上にあり褶曲の少い平地と台地から成っているからだ。ワンジャンクントーや波平と高志保間、それに座喜味の東西の両橋以外に橋らしい橋はない。
以上の橋の中でも最も古く、世の盛衰を見、歴史にも残ったのは比謝橋だ。「我身渡さと思て架きてうちえさ」と吉屋を嘆かせ、「比謝橋の水や潮いちやて戻る」と恋人との逢瀬に満足した粋人の足を留め、「思い羽の契り余所や知らぬ」と鴛鴦の契りを歌った天川の池も他ならぬこの橋からの眺めであり感慨なのである。そういうことで比謝橋が我が村での橋の始めということは容易に想像されよう。そのことは比謝橋碑文にもある通り「長江の水、橋梁なければ人民徒渉する能はず」ということで、最先に架けられたと思う。但し、それが何時頃橋として最初に構築されたかは明らかではない。前記碑文によると「■古に従ひ、只木板を設け杠を作り」とあるだけである。
一方、重修庇謝橋碑記にも「往昔の人、杠を此に設け(中略)名づけて庇謝橋という」ことしか見えない。これからすると石橋よりはるか昔から杠(木の小橋)があったというわけだ。
ここで注目したいのは両脚とも「杠を設けて」とか「新に石橋を作る」とか、「石橋に座を改築し」としながら杠も矼(水中のとび石、石橋)も固有名詞として呼ぶ時は比謝橋としていることである。すると現今使用されている比謝矼の矼という字は石橋以前の杠に対応して、両碑建立以後の人によって矼とされたのではないか。若しそうなら比謝橋が本来の表記だったと思われるがどうだろう。
米軍の沖縄戦記録写真によると、四月二九日には早くも旧橋と並行して鉄橋を架けたものがある。これは県内で一番最初の本格的な鉄橋だ。
ところで、橋は本来国、地方公共団体が造るべきものと思われるが我が村では個人によって構築されたものがある。現日進建設代表与那覇次郎氏のものがそれであり、B円とドルの通貨切替のあった年の一九五八年十二月二十四日にその竣工を見ている。これには元村長の知花英康先生は大変感激されていた。これは個人が作った最初の橋だ。
変り種としては比謝矼と伊良皆にある陸橋だ。歩道橋とも呼ばれるが、それは海洋博開幕数ケ月前に架設されている。この橋は車の流れの上にかけられた本村では最初の橋である。
(写真)字古堅から嘉手納の製糖工場へ通じた回転橋。現在もレンガ造りの橋柱が残る。
※写真は原本参照