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1977年12月発行 広報よみたん / 10頁

私が見て来た中国(その2) 上地武昭(波平出身)

私が見て来た中国(その2) 上地武昭(波平出身)
 私達は去る九月九日か二十三日まで日中友好「九州青年の船」の団員として北京、旅大、瀋陽を親善訪問した。
 まず上陸した所は天津。この地は昨年の大地震で大きな被害を受け、現在復興中だった。天津を後に私達は一路北京へ。
 北京駅では、二百名近くの人が私達一行を「熱烈歓迎」の大声援で出迎えてくれた。翌日、万里の長城など中国の民の苦難な歴史が印されている歴史博物館、ハリ麻酔の工農兵病院、毛沢東前主席の遺体が安置されている毛記念堂の見学を行なった。人口八億の首都である北京市は首都でありながらも人口は四四〇万人、その近効に四〇〇万人と人口の統制が整然とし、人口の分散化がなされ我々日本国における都市集中化の現像はまったく見られない。それに街路はほとんど一直線。とくに天安門、通りは幅五〇m、全長四〇㎞にもおよぶ直線道路。また、両側は並木道となり緑の街路は見るからに壮観であった。次に訪問したところは、旅大市。この地区は、戦争に備え、災害に備える人民のために、という毛前主席の指示に従い食糧品から日用雑貨にいたるまで蓄えてある地下戦備商店、地区の避難環、市内の中学校、そして八歳から十四歳までの少年少女で組識されている「紅少兵」の実弾射撃演習の見学を行なった。
 次に瀋陽市へ行き、そこでは八十一の人民公社、瀋陽第一工場、工人村など見学しました。八十一人民公社は、人口二万一千人、稲作を中心としているために四十四㎞にもおよぶ用水路一八四ケ所のポンプ場、四七ケ所の操作ステーションが設備され、又、農業機械工具はすべて人民公社内工場で農閑期に作っているとのことでした。その他、公社内には学校、病院図書館、映画館が完備されていた。公社で働く人達の収入は年間平均で一五〇元(日本円で約二万一千円)位だとのことだった。瀋陽第一工場では労働者の三分の一は女性が占め、ここの労働者の賃金は一ケ月平均六五元ということだった。工人村は、労働者のために造られた団地で家賃は給料の三~五%。団地内には保育所、病院、学校等がありその他に青年活動ステーション、体育館、公園も設置されていた。
 以上、私達はかけ足で中国を観てきた介だが、全体的に感ずることは、まだ発展途上の国だという実感がした。しかし、華主席の指導の基に農工業、国防、科学技術の近代化を実現し今世紀末には先進国の仲間入りするものだと感じられた。又、「農業を基礎として工業を導き手とする」というスローガンのもとに農業に力を入れ、農業整備がなされ、食糧を完全に自給していることや、「自力更正」のスローガンの通り、他の国の援助にたよらず、自分達の国は自分達で造り発展させていくという考えで研究しているところから、八億の民中国、隣国中国は近い将来必らず世界のリーダー国となりうる素晴しい国に成長するのではなかろうかと感じられました。
(写真)中国の少年少女と語りあう友好団一行。

※写真は原本参照

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