読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1978年2月発行 広報よみたん / 12頁

読谷山万事始その4 ““体育協会のこと””渡久山朝章

読谷山万事始 その4 ”体育協会のこと”渡久山朝章
 陸上競技大会を始めとする体育諸行事、活動が我が村で始められたのは何時の頃であっただろうか。残念ながら記録がないのでここでは先輩の話から紹介しよう。
 比嘉憲四郎氏(故人、元警防団長)の話によれば県の学童陸上競技大会は那覇の潟原で行われていたようである。同氏はこの大会に読谷山村代表として出場したとのことであるが、当時は村予選は行わないで各学校に割当てて選手を出したようである。その年代は明治末期だったことは容易に推測できるが、確かなことは解らない。その話から当時をしのぶとユニフォーム等というものはなく、それは褌一本の裸で、その上から腰に風呂敷を巻きつけた裸足だったようである。マークは厚紙を四角に切り読谷山と書かれたものを紐で首に吊り上げて走ったという。それこそ今では想像もつかない姿で「より速く、より高く、より遠く」とやったのであろう。
 戦前の頃は村の陸上競技大会が行われ、読谷山校区渡慶次校区、古堅校区の三校区対抗の競技会となった。普通この大会は読谷山尋常高等小学校(現飛行場内)で開催されたが、私たちはこれを村の運動会、或は三校の運動会と呼んでいたものである。それは現在の体協のような組織はなく、三校の先生方、特に体育主任を中心としての運営だったようである。
 さて、我が村で体協として組織的に活動したのは戦後に入ってからである。それは戦後の混沌とした一九四八年六月二十日で、初代協会長は知花英夫氏(現県議会議長)副協会長は宮城伝三郎氏(現村教育委員長)それに庶務会計は宮城栄雄氏(現県監査委員会事務局長)であった。大変困難な時期ではあったが村民協力して、早くもその年の十月には第一回陸上競技大会を成功させている。
 ライン引き石灰もなく比嘉良信氏(喜名)は米軍からカルキ粉を入手して来たし、優勝旗はアメリカ軍
服のラシャ布地に落下金の糸で飾りをつけペンキで画いたものだった。賞品は当時盛んであったジュラルミン鋳物の鍋、釜アイロン等が主であり、QM払い下げの靴下もあった。
 選手たちの中には旧軍の将校上りのパリパリの人が多く、彼等は跳躍の助走の時左手が腰から離れなかった。軍刀を押さえて走った癖が残っていたのかも知れない。
 あれから三十年、我が体協は名実共に優秀体協として県内で名を馳せ、幾多の表彰を受け名選手も数多く輩出した。その裏にはこの体協と共に生き、育ち育てて来た大湾稔氏(渡具知)の情熱と努力を忘れることは出来ない。同氏の体育を通しての人間作りは、一貫して先輩を立て、施設を整え、組織を充実しその中で役員、選手を育成して来たのである。育ての親大湾氏に万腔の敬意を表する。

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