読谷山万事始 その6 ”村の版図”
読谷村は現今でも大村であり、他の小さな市や町よりも人口や面積でもはるかに大きい。ところで昔はもっと広かったようである。即ち現在の村の広さに加えて恩納村の南部、宇加地・与久田・美留・塩屋・真栄田・山田・倉波・仲泊・前兼久・谷茶まで含んでいたといわれる。つまり、北谷を出て谷茶まで(何だか尻取りのようだ)がそうなるわけだが、その距離的中心地が山田で、そこは現在でも古読谷山の称があり、読谷山城とは山田城のことであったといわれている。倉波生まれの吉屋チルーが読谷山間切の人と言われて来たのも由なしとしない。
オモロに「くらはののろの、せなはののろの」というくだりがあるが、この瀬名波と倉渡の二邑はそれぞれ座喜味・山田城下の部落である。このことは護佐丸と両地域のかかわりを示す証左でもあろうし、二部落が同間切ということを表わすものかも知れない。
尚巴志が北山討伐に際し、山田城で一時旅装を解いた時、座喜味のノロが夜伽(夜とぎ)の相手をつとめ、巴志はその色香に迷い、為に北山討伐が三日も後れたという。このことも同一間切どあったことから座喜味のノロの山田への召喚もあったのだろう。
「明日はお発ちかお名残り惜しや、雨の十日も降れば良い」という小唄があったが、恩納ナビも「あちゃからのあさて、里が番上り、谷茶越す雨の、降らなやすが」と詠んで愛しい人との別れの辛さを切々と訴えたといわれる。これには谷茶からは余所島(ユスジマ)、即ち読谷山間切だという恩納アバグヮアの思いも感ぜられはしまいか。一方読谷山人(ユンタンジャンチュ)たるアカインコは余所島のケチン坊たちの舟には「瀬良垣水舟」といい、自分の村である谷茶の舟には「谷茶速舟」と吟じたというから全く愉快だ。ただしこれは愛村家たる私のひとりよがり的解釈かも知れない。
閑話休題、読谷山間切は今日よりはるかに広大なものなのであったことは事実である。その時代、中山王城から近い北(ニシ)に当る中城を中北(ナカニシ)といい、越来間切のことを北(ニシ)と呼び、我が読谷山間切を大北(ウフニシ)としたことを考える時、首里王城側にはこの三間切以外の中山の他の間切は微々たるものに映ったかも知れない。
注意/
この連載を書き始めてから少々気になり出して来た。誤り書いたものでもうっかりすると歴史化する恐れがあるからである。よってこの連載中の「かも知れない」「と思われる」「だろう」「らしい」という記述はあくまでも私の推測、想像であり伝聞にしか過ぎない。読者の皆様にはそういう気持でお読みいただきたいし、御批正も賜りたい。