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1978年6月発行 広報よみたん / 7頁

読谷山万事始 その7 ““研究教員の巻”” 渡久山朝章

読谷山万事始 その7 ““研究教員の巻””渡久山朝章
 現今の研究教員といわれるものの前身は研究訓導であろう。この制度の創始者は当山県視学であったといわれている。
当山視学は「教育界の刷新は教員の資質向上にある」と目論んでその計画実現を期した。資質向上というのは先進府県の教育の実際を身をもって学びとることであるとして、一年もしくは二年の契約を結び他府県で研究させ、もって沖縄教育界の向上に寄与しようというのである。そして、それは大正十一年三月、ついに実現した。(宮古史話)
 さて、我が村での研究訓導の始めは大湾梅成先生(渡具知)である。先生は昭和三年三月に福岡県への出向を命ぜられ二日市小学校訓導として二ケ年、児童の指導と研交に当られたのである。
 その間、校内音楽コンクールで御自分の担任される学内の児童たちに郷土作曲家宮良長包の作品を歌わせ優勝し、学校代表として筑紫高女での演奏会に参加したことや、五ケ年以上の全校女児のダンス指導で運動会に出演、更に奈良女高師の先生を講師にした学習方法研究大会で公開授業を行い、奈良女高師機関紙”学習”で絶讃を博したこと等々すばらしい研究実践を行われておられる。その上、筑紫郡教育部会の教育論文募集で優秀論文として表彰状を授与される等々、誠に沖縄県人教師として、或はユンタンジャンチュとしての面目躍如たるものがある。
 この師の御薫陶を受けその御高弟宮城伝三郎先生(比謝矼)が昭和十四年四月、三重県四日市市へ研究訓導として赴かれ、体育の指導及び社会教育事情の研究ですばらしい成果を収められた。(この時県から三名派遣)
 その頃の研究訓導は数多の応募者から厳選の上、人数もしぼられて少く、その上研究期間も二ケ年と長く、研究教員といえば当時の教育界では名実共に尊敬をかち得た教師であったのである。
 戦後は昭和二七年から日政援助で始められ、名称も研究教員となり、教諭は半年及至一ケ年、校長及び教頭が二ケ月及至三ケ月の実務研修ということになった。
 我村からは教諭として昭和二七年三月第一回に松田盛康氏(大湾)が茨木県水戸市に配置されている。戦後この制度の先陣を承り、後に続く者たちへの立派な道をあけていただいた。当時としてはこの制度への期待は大きく地元の熱烈な歓送で旅立ち、東京では朝野をあげての歓迎であったという。
 校長及び教頭の実務研修では昭和四三年に本村では始めて与久田幸吉氏(長浜)が研究教員となり群馬県に配置され学校経営全般にわたる研究を積まれた。
 研究教員として他の一つは大学留学研究制度がある。これは昭和四十年から実施されたが、これには第一回に筆者が派遣され、東京学芸大学の研究室に入り研究をした。

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