読谷山万事始 その8″ラジオの巻” 都屋382番地 渡久山朝章
「我が村での最初のラジオねっ。それは農林学校にお勤めの田中先生だったと思うよ。そうだねっ。昭和三年頃だったのだからね」と山内繁茂先生(大湾)は話し出された。その頃、大湾のスクヌヒジャに下宿されていた田中先生は、耳にさしこんで聞くイヤホーン式ラジオをお持ちであったという。北谷校の鈴木健三先生は自分で組み立てもされるという事であったが、我が村で始めてラジオを組立てた人は大湾昌伸先生(渡具知)で昭和五年頃といわれている。
間もなくして山内繁茂先生もラジオ購入したが、その真先に聞いたニュースは浜口雄幸首相暗殺の事だったというからそれは昭和七年ということになる。
さて受信機も発達し、スピーカーが取りつけられ、皆が同時に聞けるようなものが入ったのはそれから大分後のことである。それは昭和十四年頃、読谷山尋常高等小学校に入ったもので、饒波正喜先生(喜名)が中心となり村費で設置したものである。二年遅れて昭和十六年には古堅尋常高等小学校に導入されたが、そのアンテナ工事に際しては農林学校の伊波直栄先生の御指導を受けている。当時小学生であった私はその初放送を聞いて感激した。雑音も多かったが、短波による放送がはっきり聞きとれたからだ。その放送内容は明治神宮国民体育大会の開会式か閉会式の模様であったので十一月三日頃だ。
「秋の空、豊かに澄みて菊かおる 世々木の聖地 我ら今、御霊(みたま)仰げば かしこさに、心はふるう」
という大会歌が流れてきたものである。
この前後にも本放送協会沖縄放送局が首里の観音堂下に開局し中学生の間では鉱石ラジオ作りが流行したが、我が村における受信機の数はそれ程増えなかったようである。何せ当時のラジオときたら学校の先生方の俸給二、三ケ月分はたいていも買えるかどうか分らない程高価なものであったようだし、電池の消費も相当な負担になったようであるからだ。
戦後はアメリカ軍政府から日本製の直流式受信機が各学校に配られたのが始めてではあったが、新崎盛秀さん(比謝矼)のように本土から引き揚げの際、五球スーパー受信機を購入して帰られた方も若干あったようだ。
その後親子ラジオなるものが表れ、月に五十B円で聞いたものである。名嘉山親子ラジオ社や知念末吉さん(波平)の有線放送がそれである。
あれから二十数年、今や放送局は米軍、民放、NHKと四~五局も電波を出し、受信機そのもの真空管からトランジスタ方式に変り形も大小さまざまなものが出た。今ではどの家庭でもきれいな音質の出るラジオを一~二台は持っているのではなかろうか。