読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1978年8月発行 広報よみたん / 5頁

読谷山万事始 その9 ““相撲大会の巻”” 都屋三八二 渡久山朝章

読谷山万事始 その9 ““相撲大会の巻”” 都屋三八二 渡久山朝章
 相撲はもともと武技の一として、もっぱら筋骨を練り、遊惰を戒めるために行われたものであるといわれる。そういうことで我が沖縄でも最初は中山王城で始められたものであると伝えられている。
 わが村での相撲大会といえば村民ならすぐに渡慶次カタノー(屁ヒリカタノー)を思い出すに違いない。それ程ここでの相撲大会は有名であり、力士たちは村内にとどまらず沖縄各地からも集り、夜まで賑つたという。
 その他、楚辺兼久のアブシバレーも渡慶次カタノーに劣らず成会を極めた。この二つの大会が何れも競馬の後に行なわれたのも面白いが、それは農閑期の一日をたっぷり打ち興ずるための意図もあったのだろう。
 この二つの大会以上に有名だったのは比謝矼にあった村営屠殺場における獣魂祭の余興相撲大会であっただろう。これには当時としては富豪連(牛博労、屠殺業者等)のスポンサー付きで、賞品、宣伝その他でも桁外れのものがあった。
大会は農林学校生徒対中頭郡下青年の観があったが、毎年凱歌は農林学校側に挙った。
 以上が戦前の相撲大会になるが、それらが何時頃始められたかはっきりしない。
ただ字喜名に残る話として、お忍びの形で地方農村巡幸の尚■王(ボージウスー)が相撲見学を所望され、最後にその時の優勝者に挑戦し、負けたという伝説がある。相撲に王道なしというところだろうか。
 戦後始めて相撲大会が行われたのは昭和二十二年、結成後間もない読谷村青年会主催(知花成昇会長)のものである。会場は読谷初等学校校庭(現読谷中学校)であった。
 村内各字から力自慢、腕自慢が集る中で、優勝候補の筆頭はAJキャンプ横網の多嘉良朝吉(字比謝)であった。試合は予想通り進行し、勝ち残った両雄は前記の優勝候補の多嘉良と片やダークホースと見なされていた松田賢定(字喜名)である。両雄秘技を尽くしてわたり合うこと十数分、遂に凱歌は若さの松田にあがった。
 この時の審判長はかっての波之上の県相撲の三役まで進んだことのある知花広治氏(字瀬名波出身、南米へ移民)であった。
 大会終了後、模範試合として優勝者の松田と審判長知花の取り組みがあった。
「今の若い者はどうかな、まず一丁お手合わせ」ということになったのである。
準備もして居ない知花氏、ズボンを脱ぎ捨てバンツー本で飛び出した。土表土でガップリ四つに組んだまではよかったが、上体を前に低くし、腰を引いて左右に振ったとたん「あっ、出た!」?……アメリカ製の前あきのパンツからブラブラ愛嬌をふりまいたのである。これには数百名の大観衆大笑いとなった。

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