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1978年9月発行 広報よみたん / 9頁

読谷山万事始 №9 ““有料闘牛大会”” 渡久山朝章

読谷山万事始 №9 ““有料闘牛大会”” 渡久山朝章
 戦前、わが村で農民の娯楽としてもっとも人気があったのは闘牛大会であった。農閑期や節句などにうわさに高い牛を引っ張り出して戦わせ、無料で公開したものである。
 そういうわけで闘牛場も村内の処々にあった。筆者の記憶だけでも伊良皆闘牛場、大湾のトキシの山やワンジャンクントー、楚辺のエンミの毛にもあったが、”渡慶次の歩み”によると渡慶次、儀間、宇座の合同闘牛場もあったという(後に宇座は独自のものを持つ)これらの闘牛大会はそれ程の名牛は出場しなかったものの、それでも農民の健全娯楽と畜産奨励にあずかって力があったと思う。
 さて、標題の有料闘牛大会は昭和八年五月、比謝矼の家畜商比嘉憲四郎氏が当間重広、赤比地、比嘉憲永、新垣万郎の各氏らと相談し始めたことを嚆矢とする。これは沖縄でも始めてのことだと言われる。大島からワナ号、オモナワ号を始めとする強豪牛を購入、配するに県下の名牛を網羅しての未曽有の大会となったのである。
 県下各地から続々と詰めかけた闘牛ファンたちは入場料五十銭也を支払い、会場は正にあふれんばかりの盛況を呈した。
 会場は比謝川畔に松の緑を映す真栄田城趾の裏手、古堅ガーの前の凹地を急遽闘牛場に仕立てたものであった。当時五、六歳の筆者には何のことかよくは判らなかったが、真栄田城趾から大湾の外間小の前、古堅ウガンまでススキで囲い、松の幹にはコールタールを塗りつけたのは、多分無料入場(ヌギバイ)防止の策ではなかっただろうか。
 喜名在の叔父新崎盛保が大の牛好きで、一緒に連れて行かれたのは憶えているが、闘牛の結果がどうなったか判らない。サイダーが甘かったことだけが印象に深い。
 どうやらこの大会、無敵の楚辺アヨーだか、ワナ号だかがオモナワ号に敗れたらしい。
 戦後は伊良皆闘牛場(現古堅中学校東側)での大会が始めてである。敗戦後の虚脱状態の中で早くも闘牛大会を計画、楚辺・渡具知・喜名の有志たちを中心にして当時の琉球政府官房長の比嘉秀伝氏を読谷村闘牛組合長にいただき、闘牛大会を計画した。組合長の比嘉秀伝氏は特に軍政府とかけ合いLST(上陸用舟艇)の使用許可を得て、はるばる徳之島から闘牛用牛を始め鉦鼓、法螺、銅鑼に至るまで積み込み、渡具知港から場陸した。こうして終戦後、沖縄初の闘牛大会は開催されたのである。
 昔から徳之島では勝利牛の角に賞品タオルを巻いて祝福したというが、沖縄では比嘉憲永さんがこれを始めたという。憲永さんは楚辺イージョーグワァで闘牛界ではこの人の名を知らない人はいないが、その息子の憲雄さんは始めて私設闘牛場を作った。昭和五十年三月十六日のことである。
 (写真)県下ではじめて有料闘牛大会が催されたという、真栄田グスク裏手にある急ごしられの闘牛場跡。現在は密林状態となり昔の面影はどこにもない。

※写真は原本参照

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