故郷難忘 うみ働て宇座ムラ興さ 松田昌永(69歳)長浜一八三四の一番地
戦争世(いくさよ)のたみに散々(ちりぢり)に居(う)しが
忘(わし)してわしらりみ生(んま)り島(じま)や
むと姿(しがた)かわて苦労(なんじ)すらやしが
うみ働(はま)てんらな老人若(ういてわか)さ
互(たげ)に肝合(ちむあわ)ち子孫(くわんまが)たみに
我(わし)た生残(いちのく)い責任(ちとみ)とむて
他人事(よそごと)ん我上(わいん)んたげに手取(ていと)やい
宇座村の栄(さか)い永遠(なが)く祈ら
宇座村の今昔を語るには、残波岬を抜きにして宇座村は語れない。戦前残波岬は沖縄八景のひとつに数えられ、村内外から遠足に、また若者たちの恋を語る場として広く知られていた。上之毛には一面緑のジュータンを敷詰めた芝生、天高くそびえ立つ琉球松林、はるか北方に見える伊江タッチュー、南方眼下にけらまの島々、そのあい間をぬって山原船やポンポン船が黒い煙をはいて走る姿は、さながら絵に書いた風景画のようで、実に素晴らしい名所でした。
また、我がムラは半農半漁のムラとして発展し、水にも恵まれ、岩下からふき出す湧水はいくつもの池をつくり、夕暮れ時には若者たちの格好の水浴場になり「こぶなつりしあの山この川」と童歌を口づさんだ想い出は、いまだに脳裏に焼きついて離れない。日常生活でもいたって豊かで、とくに自治協同体は良く、残波の荒波で鍛えられた気質の強さは他字の人から「ウーザガーガ」ともいわれていた。
あの生れ故郷も先の大戦で一瞬にして廃櫨と化し、多くの人命も奪われ、只々悪夢の様に過ぎ去っていった。故郷を追われジプシー生活を余儀なくされた区民は現在のこの地に居住の地を求めるに至り、だが元部落まで三キロという道のりで、農耕作業にもいろいろ苦難を伴い、農耕離れも多くみられた。
戦後三七年、生れ育った故郷は忘れがたく「誰か故郷を想わざる」とは人間共通の想いです。軍用地に供された旧宇座部落は解放され、同時に悲願であった郷里復興の気運は高まり、村当局の協力を受けて関係省庁へ幾度となく元部落再興の請願を行ってきた。ようやく三七年目にして部落再興への道は開かれ、元宇座部落復元へのつち音が高鳴り、去る九月四日区事務所跡で起工式が行われたことは、誠によろこびにたえない、今後も村当局や関係者の方に格段の御配慮をお願いし、一日も早く懐しの故郷に帰れる日、平和で豊かな部落造成が出来ることを願うものです。
※写真は原本参照