読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年3月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記(15) 植樟の碑 渡久山朝章 【写真:1】

 この石碑は樟(くすのき)を植えたことを記念して、明治三八年(一九〇五)三月に建立されたものです。
 樟(くすのき)を植えたことぐらいで石碑を建てるとは大げさ過ぎると思われましょうが、それには訳があったのです。その訳は碑の正面(碑陽)に漢文で刻まれていますが、それをやさしい文に直してご紹介しましょう。
 「明治三七年(一九〇四)に沖縄は大変な早(ひでり)が続き、この上ない痛ましい状態になりました。これがかしこくも天皇の耳に達し、北条氏恭侍従に恵みの政治を行わさせられました。侍従は天皇のみことのりによって本県に来られ、東奔西走して実況をご視察し、水源を養い作るには木を植えることだとされました。侍従は駕籠(かご)を北谷間切多幸山にとどめ、樟の木を手植えされて植樹の奨励をされました。時に日露戦争が起こり、その記念園をこの山に設けました。この樟は恵みの政治と勝ち戦の記念であります。侍従のお情けある徳はいつまでも忘れてはなりません。石に刻んで後の子孫に残します」
 明治三七年の早(ひでり)で、読谷山村の耕地の五〇%が植え付けもできなかったと、明治三七年一二月一九日の琉球新報は報じています。
 このようなひどい状況に対して、宮内省から二千五百円、内務省からは四万四千円の救済費が下賜されたということです。
 さて、碑の表にある「北谷間切多幸山」とはどこでしょう。多幸山は読谷山間切と恩納間切の境界あたりにある山で、北谷間切にはありません。
 これはどうやら読谷山間切の東側から北谷間切(現嘉手納町)の字久得にかけての山をさしているように思われます。
 石碑の裏(碑陰)には、当時の県の役人や中頭郡長の名とともに「読谷山間切長比嘉自作北谷間切長仲村渠高道」という名も刻まれております。
 この石碑は戦後、読谷村への帰村が米軍によって許可されて間もなく、役場(当時は役所)の職員が見つけました。
 喜名の東の山の中に転がっていたのを、苦心して持ち帰り、役場のL字型の建物の内側の角に建ててありました。
 ところがこの石碑は元々読谷と嘉手納の境界に近い字久得に建っていたというのです。
 それで地元からの要請で石碑は嘉手納町に返還されました。
 この石碑が建っていたという所は現在、米軍の軍用地になっていますが、米軍の協力もあって、昭和六一年(一九八六)七月、石碑は元の地に戻り、写真のように再建立されました。しかしこの石碑が嘉手納の地にあるとはいえ、読谷山、北谷の歴史の一駒を語るものであることは否(いな)めません。

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