この大ソテツは、字座喜味六四番地照屋清太郎さんの庭にあるもので、ニメートル以上の大きな幹が数本も伸びて、まさに偉観と言えましょう。
当主の清太郎さんの話によりますと、このソテツは十二代前のウシータンメーという人が植えたものだと言うことです。
ウシータンメーは、立志伝中の人とも言うべき方で、番所(現在の役場に当る)の用務員からたたき上げて地頭代(今の村長に相当)にまでなったと言うことです。
琉球の編年体歴史記録といわれる『球陽』の尚敬王元年(一七一三)の記録に「座喜味の上地」のことが出てきます。この上地こそ屋号東上地のウシータンメーなのです。
『球場』のその項を略して書きますと、おおよそ次の通りとなります。
「読谷山間切の上地は、四歳の時父を失い母一人に育てられ、貧しい中で成長しました。十三歳になって大変賢く、並みの才能でないのを見た親戚の者たちは、学問をさせることを勧めました。上地は農業と学問に打ち込んで、五年もたたないうちに読み書き算盤に通じて、始めて文子(ティクグ、書記)になりました。後に碇(ウッチ、現在の区長に相当)になり、ついには黄冠(チイルハチマチ、親雲上の位)をいただき、夫地頭(ブジトウ、百姓から任ぜられた地頭)の職にまで昇進しました。公務の暇には無駄な日を送らないで一生懸命働き、大変な富を築き上げました。また、母親孝行で、困った人々には物を恵みました。
康煕己丑の年(一七〇九)の飢謹には米二百二十二石を間切に貸して飢えた人々を救い、今年の不作では米粟九十石、小黒豆三十七石を貸して百姓を救い、利息は取りませんでした。これによって位と御掛物をご褒美として賜りました」
(注=康煕己丑(ツチノト・ウシ)年は一七〇九年で、この年大飢饅があり、国中(琉球国中)で三一九九人の死者が出たといわれます。俗にいうウシ年のガシです)
さて、上地は『琉球』の記録でも分かる通り、大変知徳の高い人で親雲上(ぺーチン)の位を与えられたとありますが、それは当時の百姓としては最高の位だったのです。
またご褒美として御掛物を賜ったともありますが、それは床の間に掛ける掛け軸だったのかもしれません。
東上地(アガリイーチ)家には、沖縄戦前までは素晴らしい木杯等も残っていたということですが、それもウシータンメーと関係があった物だったのでしょうか。
それはさておき、この大ソテツはウシータンメーが植えられたとするなら、樹齢約三百年にもなるわけです。
沖縄戦の激しい戦火もくぐりぬけ、こうして現在も威容を誇るソテツは、ウシータンメーの遺徳のしからしむるものでしょうか。