読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1956年12月発行 読谷村便り / 2頁

なぜ村名を読谷と改めたか

なぜ村名を読谷と改めたのか 
知花 英康
 本日は十一年前の今月今日「読谷村役場」と言う新しい看板を掲げて戦後新読谷村が発足した日である。軍施設が多いため読谷山への移動は容易に許されず各避難地に残っているのは殆ど読谷山村人のみで地元民からは厄介視されるし、食糧は逼追し栄養失調で倒れる者が日々多くなる状態で脊に腹はかえられず夜逃げや物漁り(戦果)のために金網に入れられる者が多く戦前の「読谷山」(ヨミタンザ)という榮ある村名はいつの間にか読谷山(ユンタンザー)という軽蔑の名になってしまった。 そこで移動が許され村の新発足と共に村名も改め、人、心を一新して権威ある村を作らねばならぬと色々考へたが名案がでない。子供の名さへ生れぬ前から男なら何々、女なら何々とその親は子供の命名に童を用うるのであるが、況やお名においてをやである。それで色々考へた結果オモロには「ヨミタモサ」とある度、読谷山(ヨミタンザ)と称したこと等思い合らて簡明に而も呼び易いようにと「読谷」と改稱することにして一九四六年十月三十日村会でも満場一致介決したので更に知事の認可を得ていよいよ「読谷」と改称し今日では誰一人「読谷山」と呼ぶ人はいないようになったが、是は只簡単にしたというのいみでなく前記の深い理由があって改めたのであると言ふ事を村民は忘れぬ様にしていただきたい。

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