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1958年2月発行 読谷村だより / 2頁

社会福祉事業研修通信 読谷村社協副会長読谷村助役知花成昇

社会福祉事業研修通信
読谷村社協副会長
読谷村助役 知花 成昇

 沖縄を出てから今日(一月二十六日日曜日)で十日になります。一月十七日午前十一時海上注意報発令中に鹿児島向け沖縄丸に乗り込んで、五色のテープにしばしの別れを惜しみながら泊港を離れ、ひどくシケた海外は上甲板に上がることを許しません。それでも泊を出てから約一時間後に残波岬の沖合をすぎる頃はしばらくの間、甲板に出て「役所の皆さん御達者で」と別れをつげました。昼飯は一様夕食をぬいて寝たきり、船中の退屈しのぎと持参した雑誌も何一つ役にたちませんでした。夜中から益々揺れてきたが隣りの議長団一行先輩の元気に励まされて、さほどの船酔なしで朝をむかえました。屋久杉で有名な屋久島の山頂は雪で真白に覆われています。鹿児島湾入口のカイモン岳も同じように雪、だんだん肌寒くなってまいります。船は普通より二時間ばかりおくれて鹿児島港外に一時停舶して税関の検査を受けて午後四時着岸四時半に上陸しました。
 「旅は道ずれ、世は情」で船中から議長団や事務局の中村さんが居られたので淋しい思いもせず、それに鹿児島港には松本荘(一昨年御世話になった旅館)の皆さんが迎えて戴いたので何かにつけて都合よろしく、今晩の夜行時間まで松本荘で休息することに致しました。
 泊でチッキにしたトランクの受取りから、東京行薩摩号(十一時三十分発)のキップの購入、東京向チツキの送付等いろいろ世話して戴きました。旅先における人の情は特別なものがあります。いろいろの人の情に感謝しつつ、一人旅の不安も案ずるより産むが易しで十一時三十分に中村事務局長に伴われて東京向け鹿児島を出発、昨晩からの睡眠不足と車内はスチームが通ってポカポカと暖く鹿児島を出るとすぐウトウトとしてぐっすり寝むれました十九日の午前九時頃に関門トンネルを通過していわゆる本州に渡ったわけです。一昨年自治大学の研修のため上京の途中に丁度岩国から広島の途中で前主席比嘉秀平先生の悲報を聞きボウゼンとしてなすところを知らなかった一九五六年十月二十五日のことをおもいおこし先生の御冥福を祈り乍ら広島をすぎ、岡山明石の頃からは車窓はうすぐらくなってまいります。東洋一といわれている、神戸のネオンサインにみとれながら三の宮もすぎ大阪は午後の七時すぎ、京都大津あたりからはまた臉がおもくなって名古屋、静岡も夢のうちにすぎ、しらじらと明け初める頃には横浜、大あわてで洗面を済まして下車準備、六時二十分に品川駅で中村さんと二人で下車、山平線に乗り替えて渋谷駅で中村さんに別れて教えられるままに巣鴨で下車、八○円のハイヤーで難なく南原町の社会事業研修所の門をくぐる事が出来ました。拙ない表現、まずい文章で要を得ていませんが旅先の人の情の有難さ、気苦労、でも過去はすべて美しきものとし長く思い出となる事でしょう。
 東京都文京区原町十二番地社会事業研修所、ここが今日から五十四日間の住居であり学校であります。東京にもこんな所があったかとびっくりする程の静寂な所うっそうと樹木の中に陰気な道場風の建物、「浩然」と大書された額が表玄関にかかげられてあります。後で聞いた事でありますがこの建物は姫路の殿様酒井忠政の江戸藩邸で後に金鶏学院となり安岡セイトク氏により東洋思想、国家思想の修練道場として昭和の御代の陸海軍の成年将校や中堅官吏の修練の場として使われ、二・二六事件の青年将校もここで修養したという由緒深い処であるそうです。
 とにかくそういう様な建物の二階の七号室に案内されて先着の方々四名がすやすやと寝入って居られる処におそるおそる失礼だと思ったが静かに戸を開いて初対面の挨拶を交わした。北海道の山元さん色白くやせ型で芸術者風のめがねの方、静潟の丸山さん、二十五六才で名前の如く丸顔の美少年、大阪の信貴さん、人のよさそうな立派な体格のゼントルマン、岩手の山本さん、やはりめがねの紳士、七時三十分部屋の皆さんと一緒に食堂で朝食、十時三十分の開講式まで火鉢をかこんで北海道の話、沖縄の話、二時間足らずの交りで御互に笑談を交すほどのむつまじさ「暖い沖縄から寒い東京までようこそ」と同情され寒さも人の情の暖でふっとんでしまいました。
一月二十日午前十時三十分
開講式
式次第
一、開式の辞
国連社会科学専門技術員
全社協参事
研修所教務主任 下竹房敬

二、式辞
社会事業職員研修所長
社会事業研修所長
木村

三、挨拶
厚生省社会局長代理
厚生省社会局事務官
立教、明大講師
早崎八洲

四、閉式の辞
下竹房雄

 式の終了後研修所の内容や研修科目について、或は宿泊その他に関する注意などがあって中食、午後から早速厚生省社会局事務次官立教、明大講師の早崎八洲先生によって特別講義が行われました。社会事業を勉強せんとする者に対して最も大切な講義でありましたので講義の要点と思われる事項を纒めて見ましょう
(この種知識の浅い私が聞いた事ですから或はピントはずれになっているかもわかりませんが)

(一) 「厚生」という言葉は支那の尚書という本の第三章大萬課、に「正徳利用、厚生惟和」と書かれていて、政をなす人は徳がなければならない、徳は仁政をなすといわれているそうです。尭、舜、禹の時代は世の中が立派に治まって貧者がなく者を拾わざるの時代といわれ道に物が落ちていてもこれを手にする者がいなかった程に生活が安定していた程に善政のしかれた世であったとか、
 日本では大和民族の純血性を保って国民の素質をよくするために、保健衛生省(仮)のような機関を作らねばならないとされたが、いろいろの事情があって内務省の社会局が昭和十七年に一月十一日官制勅令第七号によって行政官庁として厚生省がおかれたのである。
(二)困った人間とはどんな人間をいうのか、古い文献によると、一、未亡人、二、孤児、三、旅人の三つが世の中で困っている人としてあげられているようです。また大宝令の戸令の中には救貧行政としておよそカン寡孤独、貧弱老疾を以って救済の対象としてあげられているようです。即ちカンとは老いて妻なきをカンといい、妻をなくした老人(六十五才以上)が夜も寝られず目をぱちぱちとあけている状態だとされ丁度魚の寝ている様に似ている(魚はフグ以外は瞼を閉じることがないようですが)のでこのような字があてられているとの事です。次の寡でありますが老いて(六○才以上)夫なきを寡という(頁の如くバラバラに分れる)孤は幼にして(十六才以下)父なきを孤といい、老いて子なきを独という、等と面白くわかり易い講義でありました。とにかく、老い

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