読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1959年1月発行 読谷村だより / 4頁

赤いんこ物語

〔31号3ページの続き〕

チラーに進めて自分は暗川の中にさっさと水を汲みに入って行った。チラーは水汲みをやめて家に帰った。そのことを知らない若者は水汲みにやって来た妹をチラーと思い無理強いに妹を侵してしまった。二人が明るみに出て見ると兄妹であることを知り世を恥ぢ舌を噛み切って自害してしまった。チラーは其の頃妊つていた。赤犬の子をはらんでいるという噂が出たので世を恥じて犬とともに村を去った。
 村人たちは本島内を隈なく探したけれど見あたらなかった。三、四年後遠く伊計島に住んでいるとの消息があったので村人が行って見ると洞穴の中で男児とともに暮らしていた。帰郷を促したけれど、世の噂を恐れ、村人の目を盗んで洞穴内で自害してしまった。
 むら人達は巳むを得ずチラーを葬り幼児をひきとりむらの屋嘉で育てた。この幼児が後の「赤いんこ」である。赤いんこがほどほどに大きくなった頃ある雨の降る一日屋嘉のあさぎであったことである。
 あさぎの東側に大きなくばの木があり、五六段の葉が繁っていた。その繁った葉に落ちる雨の音が何んとなく音に高低があり、一つの音楽をかなでている気持になった。そのとき赤いんこの脳裡に楽器を作ることを思いついた。即ちくばの葉柄で三味線の竿を作り、折型の枠を作り竿をさしこみ、馬の尾を弦にして三味線を作り自らそれを弾いていたということである。
 赤いんこは沖縄の村々を遍歴することを楽しみにしていた。又彼は予言者でもあったと言われている。
 彼が年老いて国頭から友人の女児を同伴し郷里に帰る途中恩納間切瀬良垣を通った。    女児がひもじさを訴えたので、たまたま舟大工が帆前船を建造中であったので食を求めたが大工達は自分たちも食に困っている。君たちにやる物はないと断わり更に女児の下着のないのをみてあざ笑った。それを聞いた赤いんこはかっとなったがすぐそれを抑え、「よし君たちの舟の名を私がつけて進んぜよう、その舟の名を瀬良垣水船と名付けよ」と言い残し其処を立去った。しばらくして谷茶に着いた、そこでも舟大工が船の建造中であった。早速の子供のために食を乞うと快よく提供してくれた。赤いんこは感激のあまり舟の名付を申入れた。即ち「谷茶走船と名付けよ」と言い残して女児をつれて郷里のそべ村に帰った。その両船がどうなったか、予言どおり瀬良垣船は大海に乗り出したところ水船となり破船し谷茶の船は名のとおり大海を走り通し嘉例吉の船となった。赤いんこの予言に由るものとして、破船が赤いんこを殺害すべく楚辺におし寄せて来た。赤いんこは森に囲まれたので森の中の岩頭から昇天したと伝えられている。

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