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1959年2月発行 読谷村だより / 3頁

旧正を新正に改める共同作業で資金を積立 私達のグループの歩み

旧正を新正に改める共同作業で資金を積立 
私達のグループの歩み 
八重山、石垣市米原生改グループ
知花 静枝

 大平洋戦争によってすべてのものをなくして無から立ち上らなければならない状態に追いこまれ、その上多くの耕作地を失った。私達はあのみじめな終戦のほどぼりもさめきらない一九五二年十月三十一日中部読谷から永住の地を求めて二十九戸の家族が現在の地石垣島の裏、七重八重にかさなるおもとの連峰を前にした米原に移住いたいしました。その昔は、裏石垣における唯一の部落として盛んな頃もあったそうですが、マラリアのために廃村になったようで、私たちが入植した頃は見渡す限りのジャングルばかり、道らしい道もなく、やっと馬がとおれる位の雑草の茂った一本の細い道があるだけでございました。二十九戸の家族は将来に大きな夢を抱いて総動員で開拓に精魂を打ちこみ励んだのですが毎日の労働に栄養は伴わず、遂に尊い犠牲者を出すようになり一時は気をおとしたりもしいたました。しかし郷里をでる時のあの感激を思い出しみんなが心を一つにしてこの苦難の道を乗り越えていこうと覚悟を新たにし、頑張ることを誓い合いました。当時はバスもなくトラックが一日通るだけで石垣市の街へ行くこともできない私たちに希望を与え励ましてくれたのは生活改善の指導でありました。幸いに、一九五五年四月に二十九人の部落全員によるグループを結成し、主婦として大事な衣食住のことを勉帳することになりました。普及員の巡回指導をよい機会として、栄養の話や調理の実習、作業作衣の成、その他いろいろの新しい話題に吸いつけられ、みんなで楽しい実習や話し合いのひと時をどんなに待ちわびたかわかりません。
 最初にグループとして重点的に取りあげたことは有病地ですのでまず栄養と環境衛生であります。動物性

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