読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1960年3月発行 読谷村だより / 3頁

新産業の保護育成

新産業の保護育成 
知花 英康
 わが読谷村の産業は今や曲り角に来たような気がする。一時養鶏熱が盛んであったが近来下火になり又村産業の主体は糖業でなければならんと折角力んで居た製糖工場も僅か三ヶ年にして閉鎖の止むなきに至ったその代り煙草作が盛んになり尚個人の単独経営では喜名の仲村柄実厚君父子が山野を開拓して果樹園を作りパイン、パパイヤその他あらゆる果樹類を植付けて沖縄一の果樹園を作らんと張切って居るし、渡ヶ次の玉城太郎君父子が近代農法と云うか三馬力のモーターとポンプを購入一○○米余のホースを使用して雨はなくても何時でも作物の植付を行って居るし又宇座の新垣昇君知花昌盛君は瀬名波の東六号線に沿うたブルシ原で砕石工場を設置して米軍が道路開拓の際大岩を崩し畑に放り出してあった岩石をトラックで集収してバラストなし土建者に売り出して利益を得つつあるが之に依って荒廃地も復興出来るのでタイムス新聞は之を一石二鳥の事業であるとほめたたえて居る。
この前の村共進会に参考品として砕石標本を出してあったが実に立派なものであった。その外宇座には娘一九才で家の大黒柱となって製塩業に精出して居る知花スミさんが居て母はその製品の販売に母子協力して一家を建て又大木には玉葱栽培に成功した波平勇雄君が居るし其他村共進会に出品された各種の農産物を見ても如何に村民はその生産意欲が旺盛であるかが伺われさすがはかって産業村として名を得た読谷であると意を強うした次第である。
さりながら時世は進む是からの産業は只生産ばかりでは発展せない。前記波平君も普通の玉葱の二三倍もある大きな玉葱を作る自信はあるが肝心の販路がないので折角作っても自分で売り歩く事は出来ないので多く作ってないと云って居るし養鶏の不振も鶏卵の集荷販売に欠陥があるのではないかと思う。それで今後の産業振興はその産業に伴ってその移出販売まで一貫した構想が必要である。即ち生産物の商品化と販売にはす及的中間夫費をなくして一仙でも多く生産者の手に落ちるよう生産者から消費者へと販売改善の方法を考究する必要がありはせんかと思う。それと同時に一般村民もぜひ新産業の保護育成に一層の協力が要望せらるるのである。

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