読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1961年1月発行 読谷村だより / 2頁

「郷土読谷を見つめて」知花英康

「郷土読谷を見つめて」
知花英康

戦後新読谷村を建設して最早十五年、私は絶えずその歩みを注視して居る次第であるが十年一昔という言葉もあり今や一昔半、やがて二昔を迎えようとするものである。去る一九五五年建設十周年には時の村長、助役、経済課長等の案内で二日間に亘り親しく村内の各方面に亘り詳細に見せて貰ったので私はその堅実な歩みを喜び早速親子ラジオを通じてその感想を村民に報告した次第であるが、その後の歩みは著しく村当局の熱意と議会始め一般村民の協力状態は物心両面にあらわれここに記載するまでもなく毎月の村便りや実物によって村民は周知の筈であるがこの際特に言いたい事は「村だより」の発行である。「知るのは愛の始め、愛は実行の源である」という見地から村当局においては「知らせる義務、知る権利」といって一九五六年七月以降毎月発行して已に五十四号に及んでいるが更に変り行く時代に順応して堅実なる村の発展を期するには古きを温めて新しきを知る必要から一九五七年十二月には「村の歩み」と題してわが村の昔から今日に至るまでの村の歩みをありのままの姿で描き出して普く村民に示し同時に実行計画案を樹立して着々実行せられたので今や村民の衣食住は安定しつつあるのである。さりながら読谷の環境はまだ安心はできない更に奮起を要するので知花村長は本年村長就任に当り特に「読谷村のすがた」を発行して飛躍の羽ばたきを示して居る。私はその意気と熱意に意を強うして居る次第である。御承知のとおり読谷は七二%を軍用地に接収せられ戦前の二大生産資源たる海と山は立入禁止となり先祖伝来円誠を込めて育てて来た防潮林や防風林も見るかげもなく破壊され吹けば吹かれるまま、照れば照りつけらるまま、殊に冬は残波岬から吹き来る寒風にさらされながら農耕に勤しんでいる農民の心情は察するに余りありである。私はこの情景を見て私の庭にある「大谷渡り」や「黄金桂」を連想し、「石の上どやしが糸の緑結で、変るなよ互いに幾世までも」と口吟み又「汝の立つ所を深く掘れ、そこには泉あり」との哲人ニーチェーの言葉を思い出した。彼の「政府便り琉球のあゆみ」三月号読谷村紹介にも「村の総面積の七二%を軍用地に接収され耕作面積は、五九九三反を残すに過ぎない、併しこれだけ広大な土地を軍用地に接収されているに拘らず軍と住民とのトラブルというものは極めて少く表面至って穏和情景であるのは今後の琉球の施政上に看過できない一ケー

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