読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1961年2月発行 読谷村だより / 3頁

八重山移民国を訪ねて

〔56号1・2ページの続き〕

これこそ教育のゆえんだと高く評価するものでありこれと関連してすべての学科が「まさるともおとらず」の感じを受けたのであります。また建物も鉄筋コンクリートスラブ葺にして教材備品もかなり整備されてあるものと思いました。水道あり、広い樹苗園あり、花園等ありやで管理が行き届いて立派な学校だと思いました。
 野底小中学校と明石小中学校については日程の都合により大急ぎで立寄っただけにして詳しいことは知りませんが両校ともそれぞれ移民団の入植と同時に創立された学校なので歴史は浅いのでありますが建物は両校ともスラブ葺の校舎にして教員住宅もあり野底の学校では生徒用の風呂場も設置されており教育熱も高いとのことですから沖縄本島と同等の教育が施されていると思いました。
 米原部落は元浮海(ふかい)と呼ばれ、その昔、裏石垣における唯一の部落であったがマラリヤのために廃村になったとかで入植当時は全面的にジャングル地帯におうわれ皆さん方の苦労は涙ぐましく並大抵ではなかったと思いましたその証拠には入植当時を物語る大きな株根が至ところにたくさんの面影を残しているのであります。各団とも入植と同時に家を建て道を開きマラリヤにおびえ粗食に甘んじて開墾の明け暮れ、更に猪垣をつくる等困苦欠乏と闘う中にオグデン道路が開通しマラリヤが根絶されたと知ったとき移民団の喜びは如何ほどであったかと際しられます。
こうして開拓地における根本的の隘路が一つびとつ解決を見るに至って人々の心に勇気と希望を与え、其の後における開拓事業は急激に進展したことでありましょう。現在では各団とも尤大な耕地を有し甘蔗とパインを主に栽培しているが広汎な面積を耕しながら耕種基準により栽培されたお蔭で甘蔗の如きは反当り一五、○○○KG(二万五千斤)乃至一八、○○○KG(三万斤)の収穫でありブリックスも上々にして肥沃の土地に稔る甘蔗とパインの如きは実に豊作でありこれこそ入植以来の汗の結晶であり多年の苦労が報いられたこと、私たちも共に喜びに堪えません。尚入植当時からの宿願であった土地買上の問題についても配分地測量も殆ど完了し移住民の所有にすべく只今手続き中であるとのことですからこれを契機として今後の発展いよいよ間違いないのでありますこの秋にあたり八重山地方庁並びに石垣市、大浜町の御計画と御指導、更にその掌に当られたお方々の並々ならぬ御苦労に対し深く感謝の念を捧げるものであります。
 最後に米原、美野、明石の皆様!真の発展はこれからであります。今後益々開拓精神を昻められ和衷協力して奪励努力下されば機械化農業も夢ではありますまい。よって裏石垣の山村にすばらしい近代住宅が建ち並び電気、ラジオ、テレビ等其の他文化施設が実現し明るい住みよい部落が近き将来に到来せんことを祈って止みません。

※写真「仲宗根憲市君の甘蔗の株開き(明石部落)」
「明石部落にて」「野底小中校々舎」「明石小学校々舎」
地図「石垣島」原本参照

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