読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1963年11月発行 読谷村だより / 4頁

はなしのサロン (心すべきことにこそ)

はなしのサロン 
(心すべきことにこそ)
「話のさろん」から肩のこらない記事をと注文をうけた。読谷村だよりは全面歯も立ちそうにない堅い記事だけで、少し歯も立つようなものをと特に注文をうけた。肩のこらない話とは一体どんなものかと考えてみた。
 四十年の人生航路の中には、実に穴があれば入りたい赤恥をかく時が往々ある。終戦後シンガポールから復員して来た時代の話である。南方から復員して来た者は殆ど、半袖、半ズボンの軽装が多かった。名古屋に上陸して、着のみ着のままでおっぽり出された。千五百円の現金と、外食券乗車券だけもらってさようならである。歓呼の声におくられた皇軍勇士の末路はこうもみじめなものであった。特に沖縄県人は路頭に迷った。明日からの宿泊所と食う心配である。炭坑へ行く者も多数いた。しかし自分は炭坑へ行く勇気はなかった 九州には沖縄人がたくさん疎開で来ている聞き、一路九州へと向った。幸に大分県のいなかに親戚がいた。これでほっと救われた気がした。中半田という所である。大分市にも別府市にも近い所である。随分苦労した。食う心配の苦労である。沖縄の疎開者や復員軍人は、仲買人をして命をつないでいた。田舎から安く買入れて、町へもっていって売りさばくのを専業としていた。闇市でそばやをしている者も多数いた。
 或る日のこと、例の通り大分駅で下車して、目的地へ歩いていると、道行く人々が自分をジロジロ見る。こんなにジロジロ見られるのは初めてである。色が黒いのでか、いやそんなことではない。それでも下半身に目をやっている。ついにはクスクス笑いながら通る者さえ出て来た。三十斤位の荷物を背負ってうるからだろうか。そうでもなさそうである。いよいよおかしくなってきた。これは只事ではないぞと感づいて来た。
 まさか金の玉かくしが地面すれずれに、ひるがえりながら、ぶら下っていようとは!おかしいなとは思いながら、三百米位行った所で、その荷物をおろして一服しようとした。その時である件の物を発見したのは。道行く人々のジロジロ、クスクスの意味が初めてよめた。何という恰好で、よくも駅からここまでぶら下げて来たものぞ。
 もうじっとしてはいられない。感心している時ではない。早速路地には入っていって三尺余の長物を念入りに処置した。知らぬが仏とはよくいったものである。
 当時の汽車は、自由にキップも買えなかった。人員が制限されていた。乗車すると、足のふみ場もない。窓から出たり入ったりした時代である。多分その時にもみくちゃにされて、それがずるずるぬけていくのも分からなかったのであろう。翌日からは、道を歩く時は、特にそれに注意した。
 当時の人々は人の服装にも注意してやる心のゆとりもなかったのだろう。又、ものがものだけに、おっくうがって、ジロジロ、クスクスにとどめていたのだろう。
 近頃は、三尺ものを愛用している者は少ないので自分の二の舞をする者もなかろうが、愛用者は、特に半ズボンを着る時は、心すべきことにこそあれ。
一九六三年十一月七日
渡久山朝敬

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