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1964年9月発行 読谷村だより / 4頁

永遠の議論 

永遠の議論 河上喬
 『死と生』この二つは生まれた以上誰しも背負わなければならない宿命である。
生きるのが嫌やだと言う人は自ら命を絶つ。又生きることに執念深い人は倒れても又立つ。誰しもその問題は遅かれ早かれ終焉のしん吟の声をもらさねばならない。
 自殺は高等動物の実証という人もいるが、はたして死がそれに値するものだろうか。芥川は久米正雄に言った『死んでみたまえ』と『久米は生きてみたまえ』と言った。いずれが勝つているのだろうか。虫喰む肉体をおそれ不滅の唯一のもの精神まで食いつぶすことは出来ない。それが死の美しいところで、死の魅力でもある。生きる喜びとはどこにあるのだろうか、”凡人”とは”非凡人”とは、自殺するものだけが果して非凡というものなのだろうか。凡人とは非凡からの逃避を観念とするものではなかろうか。いわゆる凡人と一般に言われているものが実体で非凡から逃れる爲に工面するもの、そのものが凡人というものではなかろうか、凡人の通称が非凡人で非凡である故凡人になりたいと口にするのでは・・・。
 ようするに本当のぼん人とは故意にぼん人を欲する者か又は馬鹿以外にいないかも知れない。しかし厭世を観念とするその懐疑派みたいなところには決して幸わせと言うものはありえないと言つても過言ではないと思う。
 芥川は昭和二年三六才の若さで世を去つた「死ななければならない人の淋しさよ」と彼は言つている。それは生きる勇気の失墜で馬鹿になれない天才の悲衰の姿でもある。
 苦労多く、道阻れる婆姿の上で生きる喜びの中に力をあわせて前進するその摩擦の火花が又明日への自分の力、友の力ともなる。
常に死と生とさまよう人間界で論じ尽きないもの”死と生”は永遠の議論であつて、幸わせは自分の手のひらの一握にあるのかも。

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