読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1966年11月発行 読谷村だより / 4頁

話のサロン ある落語

話のサロン ある落語 
知花 広三
 (一) 彼岸がすぎて
 彼岸がすぎて秋風がそぞろに身にしむ頃となりました。仕事に打ちこんでいる人々の姿を見ると、月日の流れはハイカワの流れよりも速く、今年も後残り少なくなつたと今更のようにハツとさせられます。
 めまぐるしい世の中で、ぼんやりそんな感ガイに耽つていますと、只一人取り残されてしまうのが「落ち」ですから落ちないような落語でも書いて見ましよう。
 (二) お母さんただいま
「行つて参ります」。
「行つてらつしやい」。
「お母さんタダイマ」。
「オカエリナサイ」。
 親と子の何のヘンテツもない日常の、のどかな心のやりとりです。しかし「私の家はそれをやつている」。と言える夫婦親子を心から尊敬致したくなります。
 「かせぐに追いつく貧乏なし」。と昔の人、いかにも善いこと言つていますが、「かせぐ先行く貧乏の神」。と苦笑せざるを得ない、どこか狂つている現代社会の一断面図を考えて見たいと思います。
 「共稼ぎ」をしないと時代からK、Oされると一生懸命稼ぐのはいいことですが、その子はいつの間にか手のつけられない不良になつていたという話があります。その子も責められず、かと言つてその親も責められない。
 そんな時代に生れあわせた親と子のわびしい断面です。非情な哀話ですかなあ。否。
 「行つてらつしやい」。「おかえりなさい」。のきこえない家庭、イゴの声が聞えない家庭が多くなりつつあります。
 子供の頃学校から帰つて見ると母親がいないでベソをかいた思出。今の子供たちにその「ベソ」が毎日続きます。「お帰りなさい」。という母親の言葉がないばかりに不良児が多くなるのです。幼い子供たちの一番さがし求めているのは母親の存在場所です。みたされない子供心のやるせなさが一生涯その子の心の中に根をおろすと言うことだそうです。
 「子供こそは大人の父よ、母よ」。という詩句があります。子供の心の鏡をくもらさない親になりたいものです。
 (三) チヤンネル争奪戦
 十二だと姉が言えば十だと弟が言う。そんな年頃の子がおれば当然のこと、まして三、四人もおれば兄弟姉妹のケンカにもなりかねない。大人の兄弟ゲンカさえざらにあるのですからこのチヤンネル争奪戦の幼い選手たちに心から拍手を送りたいものです。むろん戦、はげしければ仲に入らねばなりませんが。ではこの争奪戦を皆無にする方法を披露致します。いたつてかんたんです。
 (1) テレビを子供の数にあわせること、
 (2) テレビを一台もおかないこと、
 (3) ・・・・・・・・・?
 なんだバカバカしいとおつしやらずに(3)を考えて下さい。
 チヤンネル八を見たいのですがわが屋のテレビはいたつてわびしいセコハン一台、四畳半にチン座まします始末、そのチヤンネルさへの私の順番は夜中十二時にしか廻つて来ません。生きてる限りどこまでも、さがし求めるコイネグラならぬ新品のデカイ、ステレオをさがし求めてあるき続けるのです。
 (四) 台風も今風
 昔の台風は吹き荒れる時間が短く二、三時間で通りすぎたのでアブシのカタハラーグワーにヒナンして台風をやりすごして野良から帰つたとのことです。
 アメリカユーは風の吹き方まで狂つたのですかなあ。ああ宮古台風!!もうたくさんです。 風まで仲風でもなく今風になつていますから用心に用心せねばと思います。おまけにマス、コミで耳をおおいたい程予報を何十回もきかされると、「コン畜生、狂つた今風までが沖繩をいじめ、ワツターソンをさせるのか」。と頭がヘンになります。

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