退任の御挨拶
前村長 池原 昌徳
ようやくにして二期八ヶ年という村長の任期も終り、通算二三ヶ年も働かしていただいた村役所には私はいま「大過なく働かしていただいた。」というよろこびを誇り、感謝の念いっぱいである。
十年一日の如し=ということばのように、二三年という年月もまた非常に長くして短かく、夢の間の過ぎたかのように思う。終戦直後の一九四七年九月読谷村役所に採用されてから、書記長、財政課長、収入役を歴任し、つづいて一九六二年十二月、無投票にして読谷村長に当選、村政第十五代の村長として権威ある我が村の村政を担当し、ここにその大任を無事終了させていただいた。全く有難いことであり、私の名誉にこれにまさるものはない。
これ全く歴代の先輩村長をはじめ、村内外の先輩知友、役所職員、議会議員、区長、教育委員、教職員、農協、各種団体幹部、村民各位等、多くの方々の御指導御鞭撻の賜であり、この機会に心から厚く御礼申し上げたいと思う。
それではこの機会に私の任期中における村政をふり返りながら所感の一端を申し述べて見たいと思う。
もともと本村は沖縄本島の中央部に面し、山あり川あり農地あり平坦地で実に立地条件のよいところだと思う。その昔、きび、いも、牛の産地として「農」で栄えた村であり、座喜味城、赤インコなどの史蹟名所や読谷山花織、古典舞踊などすぐれたかずかずの文化遺産を築いた村である。村民は淳朴で団結心が強く、非常によく働き、畑は立派に耕され、道路管理も行き届き、野も山も部落も緑に包まれて情緒豊かな村であったのだ。
ところが去った大戦により村の中央部に日本軍の飛行場が建設され、また米軍の上陸地点となったことにより、ありとあらゆるものが壊滅され、かってのきび、いものよくとれた肥沃の土地は潰れ荒れ果てて、沖縄一の広大な軍用地となり、しかもナイキ、フォーク、メイスのミサイル基地、落下傘演習場、弾薬倉庫、通信隊といった沢山の基地のある宿命の村に変っていたのである。しかしながら村民はこの過酷な運命にひるむことなく、燃える郷土愛と団結の力により驚くほどの戦災復興を遂げていた。また各字における公民館活動も充実し、全県民的な軍用地問題も解決して、村民生活は逐次安定向上の一途を辿りつつあった。
つづいて過ぎし一九六〇年代は、これまた本土政府の高度の経済成長政策と貿易の自由化に伴い、我が沖縄も大きな影響を受けまた、沖縄の軍事基地強化による軍工事ブームや労働運動などにより、社会経済は著しく発展したものである。そのために村民の近代住宅は建ち並び、ラジオ、テレビ、家庭電化、自家用車など驚異的な普及を見るに至り本村の経済発展は大きな変化を遂げたのである。尚、政治的な面については県民悲願の復帰運動を頂点として主席公選、国政参加政治や、B52撤去、全軍労闘争など県民の激しい運動が展開されたのであるが、とき既に本土復帰のメドがつき、国政参加が実現し、特に一昨年の主席選挙では本村出身の屋良朝苗氏が当選なさったことは、本村民にとって大きなよろこびであったと思う。
次に私の任期中はたいした暴風もなく安心したのであるが、しかし六〇年来の大干魃に襲われてひどい目にあったものである。また米軍の落下傘演習による隆子ちゃん圧殺事件、黙認耕作地の撤去、婦女暴行殺人事件などが発生して村民にはかり知れない不安と恐怖を与えたものである。私はこのような事件が発生するたび毎に議会を招集し或は協議会を開いたりして、再びこのような事件が起こらないように、その対策を立てたのである。それから知花議長等と共に抗議文や要請決議をひっさげて琉球政府、立法院、米国民政府、高等弁務官、空軍師団長、関係部隊長に対し強く訴えつづけたのであるが、何しろ相手が米軍であり米国の権力という厚い壁があるために、主席や立法院にもたいした権限もなく、ましてや村長、議長などの力も微々たるものにして、米軍の厚い壁を打ち破って村民の要求を達成することは実に困難にして、異民族支配下における県民の悲哀をいやというほど体験したものである。
さて私の任期中に推進した事業の主なるものは全村水道事業の計画により衛生的で豊富な水を使うようになり、村道の潰地補償や改良舗装工事もかなり進められている。また、保育所、花織の再興、村誌の発行、果樹園事業、読谷飛行場の払下げ問題など計画してきたが、その中で果樹園事業が順調に運営できなかったのと、読谷飛行場の払下げが実現できなかったことは誠に残念である。尚教育委員会と提携した事業としては、古堅中学校の分離移転に伴う新しい中学校の建設をはじめ、各学校の給食施設、図書館、幼稚園会、水泳プール、運動場建設、体育館などの教育基本施設が着々と整備され、更に婦人会、青年団、公民館、PTA、教育隣組など社会教育活動の実績により中央公民館の建設を見たことは全くよろこばしいことである。 本村は総面積の凡そ八〇%が軍用地に接収されたため、企業立地の土地が少なく、水資源に乏しいこともあって商工業計画は全く予測出来なかったものである。従って本村の基幹産業は農業であるという方針で農業振興計画を立て、甘蔗、いも、豚の産地づくりを積極的に推進したのであるが、何しろ全耕地の大部分が黙認耕作地であるために、土地の基盤整備や本格的な近代化農業も出来ず、また一戸当り四〇アールという零細企業であること、貿易自由化のきびしい壁、豚価下落などの悪条件のため、本村の農業政策は実にむつかしい問題であった。
いよいよわれわれはいま新しい文明の誕生という一九七〇年代の二年目をむかえ、且つ沖縄の本土復帰という歴史的な転換期をむかえようとしているが、とき既に、日、米、琉政府では、復帰する歳の円滑な県政移行や、豊かな沖縄県づくりのための「返還協定」を作成中であるという。従