開館にあたって
村立歴史民俗資料館 館長 名嘉真宜勝
県下で初の歴史民俗資料館が読谷村に誕生した。戦後急速に発達した機械文明の中で、長い間私たちの祖先が受け継いできた手作の文化や民俗が急変しようとしている折、民俗資料、歴史資料を一堂に集めて、一般村民や児童生徒に活用できる場を考案したのは大変有意義なことであった。
幸いにして、読谷村にはまだ民俗資料は古い姿のがよく保存され、また、遺跡や貝塚等も多数存在し、その遺物もよく保存されている。本村にこの資料館が出来た為、村民の歴史に対する感心度が高まりつつあり、近い将来、読谷村の歴史も新しく書き変えられるものと期待される。
=歴史民俗資料館の出来上るまで=
資料館を訪れた方に、読谷村は立派な事業をなされたと讃慈される。読谷村は社会教育面では県下でも進んだ村として注目されてきた。資料館の出来上るまでのことを前企画室長の松田昌彦氏に聞いてみた。
「座喜味城跡を中心とした公園整備計画は前村長時代にその構想が立てられてきた。」
一九七一年復帰記念事業の一環として国の援助金八万$で座喜味城跡周辺用地八千坪を購入。同年六月公園計画の中に「民芸館」の構想がおりこまれる。翌昭和四七年六月「風土記の丘」計画案が出て、その中に「歴史民俗資料館」構想が出来る。同年十一月歴史民俗資料館の具体的計画案が出される。①国庫補助金二百万円がもらえる、②総事業費の八割の起債がきく。以上のことがさそい水となった。村財政の枠内二千万円の事業をしようときめた。料資館には村内にある古い読谷山花織二五点の展示と花織工房を兼ねることを頭初の目的としていた。設計指導は文化庁の半沢技官にお願いした。そして昭和四九年三月我那覇設計事務所が設計をやり、地元の日進建設が請負って完成した。(昭和四九年八月二五日)。位置は現在地より北の松林の中に予定していた。現在地にはコンクリートの便所があった。また建てものも赤瓦二階建てを予定していた。交通の便、予算のつごうで現状の形に落ち着くことになった。
=資料館展示案内=
本館は①ロビー、②事務室、③宿直室、④男女便所⑤湯沸かし室・ロッカー、⑥第一展示室、⑦第一収蔵庫、⑧第二展示室、⑨第二収蔵庫より成り立っている。第一展示室は三段に作り、民具四〇〇点余を展示している。第二展示室はT字型に固定ガラスを張り棚を作り、読谷山花織、喜名焼壺、南蛮壺等を展示してある。さらに移動式陳列ケース11台に考古遺物、喜名焼壺、壺や焼壺等を展示。ロビーにも移動式陳列ケース3台を置き三味線や民具を展示してある。第一・第二収蔵庫には千点余の歴史民俗資料が収蔵されている。
資料館の開館は、日・火・水・木・金・土で、午前八時三〇分から午後五時まで開館している。去った五月十八日オープンし連日観客が絶えない。平日は五〇名で日曜は一五〇名余の客が見えている。村外からの客もきわめて多い。
入場料は大人三〇円、中高生十円となっている。
=資料収集から開館まで=
建物が出来上ったのは昭和四九年八月二五日である。同年十一月十一日館長に名嘉真宜勝氏を迎える 職員は館長一人で、当分の間教育委員会職員がバックアップしてスタートした。資料館は建物だけで備品、設備はぜんぜんなく無の状態であった。最初の資料収集は十一月二〇日長浜部落であった。そこから四点の民具が採集出来た。午後には波平から七点採集。合計11点が最初の日の収穫であった。採集方法は前もって二二ヶ字の区長と予定を組んでおき、区長と館長で直接一軒一軒を回って必要でなくなった品をもらいうけた。
開館は当初四月予定であったが備品設置の件で五月十八日に延期し実施した。式典には屋良県知事夫妻はじめ村外からも多くの来賓が参加し、総勢七・八千人の人出であった。
=今後の館運営=
(1)まず、資料の収集・展示に力を入れ、並行して調査研究活動をして行く。例えば、村内の緊急民具収集活動民具調査研究活動、民俗芸能調査、民俗調査、村内貝塚・遺跡分布調査を実施する。
(2)村内・村外の学校団体や各種団体との交流を密にして行きたい。
(3)特別資料展示活動を年に数回やる。例えば読谷山花織展、喜名焼展等。
(4)資料館の施設を拡充して行きたい。次の施設が早急に必要である。イ 冷蔵庫、ロ 応接間、 ハ 館長室、 ニ 図書室、 ホ 研究室、 ヘ 会議室、 ト 展示室、 チ 荷解場、 リ 消毒室、 ヌ 映写室。
(5)学芸員をおいてほしい。
民俗学、考古学、歴史学専門各一人。計三人。