読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1976年10月発行 広報よみたん / 4頁

広報読谷200号発刊によせて 懐古雑感 沖縄県建設業協会専務理事 知花成昇(元村長)

〔200号4ページの続き〕

かずに走り続けてきたかといえば、少しオーバーな表現でありますが、とにかく二〇年になりましたか。
 実のところ、そろそろ初老を感ずる年輩になり、「故きを温ねて、新しきを知る過去はすべて美しきものなり」ということですからここらで過去の美しさを懐想してみようかと思うような最近の心境でございました。そこに突然と申し上げると失礼になりましょうか、役場の広報係さんからの依頼で、「読谷村だより」創刊時の村政の動き、社会の状況、広報にまつわる話題など、二〇〇号記念に書いてほしいとの依頼をいただき、よろこんでお引受けしたわけでございます。
 ところが、いざペンを取ってみると、頭の中は交通混乱を起こして、編集者の意図しておられる事は何一つ書けず、全く申訳なく思っています。結局は古い本棚の奥深く厚み重ねられた一番下の雑記帳を二~三冊取り出し、読谷村役所に赴任したころをめくって見ました。その中に一九五六年十二月二九日(土)のページに「午後から読谷村だよりの原稿を整理する」とあり、それ以前に創刊号は発行されたものと記憶しています。当時の広報はただガリバン刷の表裏二ページのささやかなものだった位しか記憶になく、創刊のことば等は残念なことに忘れてしまいました。
 もし、今の様な社会情勢だったら、創刊のことばに「金銭や物質万能の思想に社会が支配され、社会の価値基準が大きく混乱、混迷の度を深めつつある現代の日本の世相に深刻な反省を求め………」などと書き出した事でしょうが、当時の読谷村は公民館活動が盛んで、婦人会、生活改善運動など県内各市町村から連日の如く視察団が来村していましたから、創刊号も明るい建設的な記事ではなかったでしょうか。創刊号以後の読谷村だよりが村役場に保存されていると聞いていますからぜび一度は読ませでいただきたいと思います。
 私ごとで他の方々には別段興味を引く事はありませんが当時の雑記帳から一つ二つ転記して責任紙面をうめる事をお許し願います。
※読谷村第四四六号 一九五六年五月二一日
 読谷村長 伊波俊昭 印
波平区一班 知花成昇殿
 助役選任について
 本村助役に貴殿を選任致し度、去る五月十七日村会の同意を得ましたから了承下さるよう御知らせします。ーーという公文書がのりづけされて、私の読谷村役所時代のスタートがしのばれてなつかしく思っています。
※一九五六年六月一日
 助役辞令をいただき伊波村長の紹介で就任挨拶を行う。全職員三六名が出席。
 午後、当山真志先生来所先生のお話の要旨、「闘争なき社会は進歩なし」とは共産主義者の言動である。話し合いの中に進歩的な意見をまとめ平和の裡に社会を改善していくことが理想である。と解かれた。ー当山先生の姿がまぶたに浮んでまいります。
※一九五六年六月二0日
 軍用地問題四原則貫徹村民大会ー午後五時読谷小学校にてー一括払い反対、新規接収反対など、ページをめくっていると明暗善悪種々な事があったものです。
 最後に故人となられました役所の大先輩、知花英康先生、当山真志先生、伊波俊昭先生、仲本政公先生。宮本万次郎先生、並びに島田、知花清吉、知花清隆の三産業課長、前田蒲さん皆様の御生前の功積をしのび御めい福をお祈りさせていただきます。
 「始めるのは易く、継続することは至難のことである。この継続こそは、物事を成就させる唯一の道である」と申します.
 どうぞ四〇〇号~一千号と読谷村の発展とともに、「広報よみたん」がいつまでも続き、伸展して行きますよう祈念いたしまして拙文を柊ります。

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